こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年5月21日 土曜日 夜 ZELDA特集4「密林伝説」

2011-05-21 22:37:57 | 音楽帳
~ゼルダを巡る時代の断片メモ~

80年代 東京 という特殊空間。
東京という場所は、むかしむかし、おおむかし、雨が降るたびに水害が多く、そんなに多くの人が住んではいなかった、ということを、昔、本で読んだ記憶がある。
東京が明治以降様々な変遷を辿りながら、そういう歴史を大事にせず、平気でローラーで潰して、更地にして、そこに平気で「新しいもの」を作ってしまうのは、それゆえか?

ボクはそうは思わないが。
しかし、この東京という都市は、様々な流民が流入したカオスな都市であり、誰も「出て行け」とは問われない特殊な都市である。
また、人が住む場所でありながら、こんなにも「土足で」平気にここに人々が遊びにやって来ては放蕩三昧をして、ゴミを撒き散らした末に、帰っていける場所であることも特殊である。
異様なことがまかり通る都市。

1980年というのは、1つのそういう日本の首都、東京の時代の分水嶺となった年だったのかもしれない。
ここから、いびつな変遷を東京は描いていく。
そういういびつな変遷のきちがい的状況を自分は生きながら、行き倒れるようにして1986年に自殺未遂する。
限界だった。

その数ヶ月前だが、同じ時代を生きていた者の自殺に衝撃と落胆を覚えたのも、1つの自分の導火線ではあった。
「東京で生きること」に対して大きな苦しい空気が渦巻いていること・事実がカタチとなって現れたのは、1986年4月8日。
AM~昼にかけて岡田有希子が自殺未遂の後、四谷3丁目の交差点にあるサン・ミュージックの屋上から投身自殺する。
その後、後追い自殺が耐えなかった。
4月8日の夜は、ただでさえノイローゼだった自分も、体が震えて眠れなかったことはよく覚えていた。



自分の場合は、2年目の大学浪人であり、親からは「絵でメシが喰えるとでも思ってんのか」と専門学校への道より大学を示唆され、社会とのはざ間で心身をきしませていた。
兄が麻布中学・高校→東大→某大手広告代理店Hというエリートであったのも、この自分を追い詰めていた大きな要因と性格形成に影響している。

同じ1986年4月8日のうららかな午後、16:00から渋谷のNHK-FMからは、小嶋さちほさんの「午後のサウンド」第1回目の放送が流れる。
自己紹介を兼ねて、ゼルダの曲で満たされた時間。
特に、1985年秋に発売された3枚目「空色帽子の日」をこの放送で初めて聴いて、1・2枚目に無いリラックス感と完成度の高さに驚いた。
そのカセット・テープは、今も保存されている。

・自転車輪のみた夢
・湖のステップ
・フラワー・イヤーズ・オールド
・時折の色彩
・ ディア・ナチュラル

***

1980年という分水嶺の年はYMOイヤーで、どこに行っても東京には、YMOのソリッド・ステイト・サヴァイヴァーが流れていた。

その前後以降、アンダーグランドなサブ・カルチャーに惹かれて行き、どっぷり浸かる自分。
糸井重里がコピーライターとして、過去ゲバ棒を振るっていたものをペンに変えて、革命を起こす。
それは、坂本龍一とて同じこと。


【兄が広告屋になった元でもあり・80年代を変革した「広告」と言う名の「プロパガンダ」「煽動」「暴力装置」。
「おいしい生活。」By糸井重里】

当時のサブカルチャー人たちは、ビックリハウス、宝島、フールズ・メイトなどのサブカルチャー雑誌に群がっていた。
中学・高校の多感な時期を、そういうものと一緒に過ごし、「何か」を見つけようとしていた。
数少ないおこづかいをそういうものに投資し、そういう人が集まる場所をうろついた。

今のネット社会とは異なり、みな孤独だった。
そういう中、感性の似た「誰か」を探して、雑誌に投稿したり、そういうライターを雑誌に見つけて同期化しようとしたりして、孤独を紛らわせようとしていた。

例えば、香山リカは、ビックリハウス、フールズ・メイト両方への寄稿をしていた当時一般人だった。

日本の80年代の音楽シーンは、YMOとその周囲の人々は居たが、売れる曲、チャートは歌謡曲と演歌とアイドル曲だけであった。
完全に表舞台のメジャーシーンに、革新的なものが食い込むことはなかった。
YMOはヒットしたことに拠ってメジャーな場面にも出て行かざるをえなかったが、それ自体=身売り行為であり、彼ら自身も毛嫌いし遠ざけた。
そのために、1981年3月のアルバム「BGM」で、大胆なファン層の大衆切り捨てを行う。



日本の80年代前半の音楽シーンはメジャーシーンとマイナーシーンに完全に分断されていた。
メジャーシーンは、産業としての音楽しか成立し得なかった。
そこにあえて、皮肉も込めて、1981年末に解散出来なかったYMO3人は、1982年に多くの歌謡曲、アイドル曲作りに積極的に関わり、1983年、YMOを解散させるプロジェクトの中で「君に胸キュン」「過激な淑女」という口当たりの良い曲をヒットさせる。

「過激な淑女」は、元々、細野さんが作曲したもので、中森明菜の曲としてプレゼンしたもの。
そこで落選した曲を、あえてYMO自身が演奏するという過激な構図。



***

マイナーというシーン。
よくインディーズと呼ばれるインディペント・レーベルに所属するアンダーグラウンドな独立独歩の人々。
ボクらは、そこに惹かれてやまなかった。
「アンダーグラウンド」というだけで、ぞくぞくした。

しかし、イギリスがインディーズから多くの突出した音楽が生まれメジャーに出て行く中、日本のシーンではマイナーなインディーズは、メジャーには出てこなかった。
そういった事を拒否した。
インディーズに留まることが、産業音楽を否定することとイコールであり、メジャーデビューというのは、先ほども述べた身売り行為という匂いが強く、ファンも、「自分たちの思っている彼らではなくなった」と否定的だった。
それは、出来るだけ少ない人数で愉しむ秘密であることで、特権的な「他の人とは違う」という差異を勝ち得るという意識も強かったが、それだけではなかった。
やはり現実は異なっていた。

それは、昨夜紹介したように、ゼルダが1枚目のアルバム制作で、制作者側の良いように、解体されようとする場面が実際存在していた。
「お前ら売れてカネ欲しいんだろ。だったら、オレの言う通りにしろ。」
そういう脅迫・強要があったことを意味している。

***

さくりんさんへ

なかなかゼルダを一言で語るには難しいものです。
今日は、ひとまず、ある断片のシーンを書いてみました。
また、色んな時代の「キー」との絡みを思い出しながら、ゼルダを周辺との位置付けを行って行きたいと思います。

自分がゼルダを初めて聴いたのは、「密林伝説」でした。
確か、坂本龍一のサウンドストリート?だったような/なかったような?
何で聴いたのかは記憶に不明瞭ですが。
本当はアルバムの曲の間奏でホワーッという夜の風の音の部分が好きなのですが、YOUTUBEにアルバム曲が無いので、ライヴをアップします。



ライブ
1982年9月27日 テレビ神奈川放送「ファイティング80's」
場所 : 東京・蒲田の日本工学院専門学校

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