朝、ペンキでまんべんなく塗りたくられた青。空の色。寒の戻りで外したマフラーを戻す。
夜の帰路、北風強く、工事現場の足場と防塵幕が揺れていて「これが崩れたら」と恐れる。
ホワイトファンクという言葉を意識したのは、ミュージックマガジンの中。今野雄二先生。
ア・サーテン・レイシオがまず、そう語られていた。(実際は白人・黒人混合)彼らの曲では1982年2月16日「ウォーターライン」。
中古レコード屋めぐりをする中、彼らのLP・12インチ・ミニアルバムを沢山見ながら、手持ち金は少ないので買えず。じゃあFMで・・というと掛かる番組も無かった。
ミュージックマガジン1982年2月号、1981年ベストアルバムに今野先生が「To Each・・・」を選んだり、1月号”ファンク”特集を読み、気にしながら。現実的にア・サーテン・レイシオを聴き出すのは、教授が掛けてくれた「ウォーターライン」に出会って以降。
ホワイトファンクでは1982年春以降、登場したABCまでがそう語られたが、それは違うのでは無いかと思っていた。
むしろ1981年ファーストアルバムの後、シングル「チャントNo.1」を創ったスパンダー・バレエを聴いた夏の夜。サウンドストリートで掛かった1981年8月18日夏の夜。
どこにカテゴリーすれば良いか不明のクロスオーバーな感じが素晴らしい名曲。
「とぅる~」以降”泣きメロ”演歌に成り果てる彼らとはまだ無縁の冒険が大成功したシングル。
ア・サーテン・レイシオが女性ヴォーカルを入れてブラジル的音を鳴らすのを聴いた「FMトランスミッション/バリケード」放送時点では、”このバンドは終わっている”と即直感的に思った。
これは(今となっては)危険だが、音の向こう側で、何かとんでもない意志や思想がうごめいている。そんな不気味で得体の知れないものを、ア・サーテン・レイシオの音楽に感じ、興味津々だった。それが彼らの魅力だった。
CD時代になって購入した「Early」2枚組。
今から知る人なら、このCDか「To Each・・・」を聴いたほうがよいだろう。
■ア・サーテン・レイシオ 「フライト」■
「黙ってはいるが、どこかで輝いている同志が、ここには居る」 と以前、書かれていたフレイズがリフレインします。
http://www.basegallery.com/exhibit_iga15.html
よかったら、見にいらしてください。