第1部 カール・マルクス
第1章 人格形成期
果たすべき課題も忘れ、諸々の知識の周りをうろつき回っているとは、全く情けない。
―父ハインリヒ・マルクス
(1)中産階級的出自
ユダヤ系中産階級
本連載の主人公の一人カール・ハインリヒ・マルクスは、1818年5月5日、ハインリヒとヘンリエッテのマルクス夫妻の第三子として当時プロイセンの西端トリーアの町で生まれた。
父方のマルクス家もオランダ出身の母方プレスブルク家も共にユダヤ系かつ代々ユダヤ教律法学者(ラビ)という家系であるが、父ハインリヒはむしろ西洋近代法の弁護士として町の有力者の一人であった。
このようにマルクスの家系はかなり純度の高いユダヤ系ではあったが、一家はカールが生まれた頃にはプロイセンの支配的宗派であったプロテスタントに改宗していたのだった。当時トリーアの町はむしろカトリックが優勢であったのに、マルクス家があえてプロテスタントを選んだのは、大国化しつつあったプロテスタント系領邦国家プロイセンの中で少数派ユダヤ人が社会的に認知されるためには、プロテスタントへの改宗が有利であると考えられたためであろう。
要するに、マルクス家は民族的解放よりも国民的同化の道を選んだのである。このことは、カールを含むマルクス家の子どもたちの将来にとっても有益な戦略となるはずであった。
ただ、そうした一家の立身戦略というレベルを越えて、マルクス家がプロテスタントを選択したことには、一家のリベラルな気風という思想的背景もあったと思われる。特に父ハインリヒは決して急進的ではなく、むしろ保守的でさえあったが、フランス革命に傾倒するリベラリストでもあり、進歩的保守主義者とも言うべき知識人であった。従って、キリスト教への改宗に当たっても、反動的傾向を免れないカトリックより改革志向的なプロテスタントを選択したということは自然な流れでもあったろう。
こうしてマルクスがリベラルな進歩的保守主義の気風を持つプロテスタントのユダヤ系中産階級家庭で育ったという事実は、彼の人格形成上も決定的な要素を成していくであろう。
トリーアの地政学
マルクスの人格形成において、17歳までを過ごした出身地トリーアという町の地政学的特殊性も見逃せない。ライン地方でも西端のルクセンブルク国境にあるトリーアはフランス革命からナポレオン時代にかけて、フランスに占領された。その結果として、革命の精神が流入してきた。マルクス家のリベラルな気風もそうしたトリーアの町の特殊性と無縁ではあり得ない。特に1777年生まれの父ハインリヒにとっては、その人格形成期がフランス革命とナポレオンとともにあったと言ってよかった。
しかし、ナポレオン失墜後のウィーン会議はそうした「自由の時代」を終わらせた。ウィーン会議の結果、トリーアはプロイセン領として編入されたが、その代償として反動的なプロイセン当局の支配下に置かれることとなった。マルクスが生まれた1818年はそうした「反動の時代」の初期に当たっていた。
とはいえ、トリーア周辺のライン地方は元来、保守的なドイツの中にあっては自由な気風の強い土地柄であり、そこはやがて勃興してくるドイツ資本主義の中心地となるはずであった。トリーアの町自体も、古くからのモーゼルぶどう酒造りとともに、皮革工業や織物工業などで発展しつつあった。
「反動の時代」にあっても、トリーアから自由な精神が完全に消えてしまったわけではなく、ドイツの中で最もフランス的と言われる町であり続けていたのだった。
「不良秀才」への道
カールは12歳の時、トリーアの「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム」に入学する。ドイツ伝統のギムナジウム制度は大学進学のための予備課程を兼ねたエリート・コースであるから、カールへの父の期待は大きかったと思われる。
しかも、このギムナジウムは当時のトリーアの気風を反映したリベラルな校風で知られ、マルクスの最初の知的な訓練がそうした校風の学校で施されたことは、彼の思想形成にも当然大きな影響を及ぼしているはずである。
ちなみにマルクスのギムナジウムにおける卒業試験の成績は、「良」の物理を除いてすべて最高ランクの「優」というものであった。「秀才」と言ってよい成績ではあるが、ここで科学科目の物理の成績が今一歩であったのは、後年、思想家としてのマルクスが科学性を重視したことからすると意外に見える。このことはマルクス理論における「科学性」の内実を究明するうえで間接的な手がかりとなるかもしれない。
ともあれ、17歳でギムナジウムを卒業したマルクスは、トリーアから地理的にも比較的近いボン大学の法学部へ進学する。法学部に入ったのは弁護士稼業を息子カールにも継いで欲しかった父の半ば命令であった。
しかし、半強制的に進学させられた法学部は、マルクスにとって居心地のよい場所ではなかったようである。ボン大学在学中のマルクスは詩作に熱中する一方、借金にも手を出し、飲み騒いで大学から謹慎処分を受けたり、果てはケルンで禁制武器を携帯して裁判にかけられたり、と「不良」ぶりを発揮し始める。
この時期、カールの将来像はまだはっきりしないが、少なくとも父の期待どおりに弁護士への道を無難に歩む見込みがなさそうであることだけははっきりしてきたのだった。