第1部 略
第1章 人格形成期
(2)進歩‐保守的な恋愛
将来の妻イェニー
「マルクスの恋愛」などというテーマは、後年の謹厳そうな唯物論者マルクス像には似つかわしくないようにも思えるが、このテーマはマルクスを理解するうえで意外に重要な手がかりとなる。
マルクスの理論と実践にとって、やがて共同研究者兼同志となるエンゲルスとの盟友関係は不可欠の要素であったが、カールと妻イェニーとの夫婦関係も前者と同程度か、ある意味ではそれ以上にマルクスの思想家・革命家としての人生において決定的な重要性を持った。
その将来の妻イェニーはトリーアの地元貴族ヴェストファーレン家の出で、彼女の父ルートヴィヒも町の有力者であった。マルクス家とは近所同士であり、そのためにカールの姉ゾフィーと親しかったイェニーもカールとは幼なじみであった。
イェニーの父ルートヴィヒは貴族階級ながらトリーアの風土を反映した啓蒙主義者であり、身分差や民族籍を越えてマルクス家と親しく交流し、マルクスも幼い頃からヴェストファーレン家に出入りしてルートヴィヒから知的な薫陶を受けていたのである。
このような家庭に育ったイェニーもリベラルな気風の持ち主であったようで、後年カールと結婚した後、ほどなくして無産知識人となるカールを終生支え続け、何人もの子どもを抱えて外国でのどん底生活を共にするだけの覚悟も備えた女性であった。
18歳の婚約
カールと4歳年長のイェニーがいつ頃から親密になったのかは明らかでないが、ボン大学から一時帰省した18歳のカールからの唐突な婚約申し込みにイェニーが応じたことからすると、早くから交際関係はあったように見える。
それにしても、この婚約はいかにリベラルなトリーアの土地柄とはいえ、まだ封建道徳が色濃く残っていた当時のドイツではいささか大胆なものではあった。まず自由恋愛ということ自体が、富裕な有産階級の間では一般的ではなく、ともすれば不道徳とみなされかねない時代であった。
それに加え、身分差も問題であった。かなり裕福ではあっても中産階級のマルクス家と田舎貴族とはいえ一応貴族階級に属するヴェストファーレン家とでは家格の違いがあり、事実ヴェストファーレン家では家長ルートヴィヒを除くと、カールとイェニーの婚約は歓迎されなかったようである。
ただ、肝心なルートヴィヒの承諾が得られたのは、彼が幼年時代から知るカールの才覚を高く評価していたからにほかならなかった。もっともルートヴィヒとて後年のカールの活動を予測していたら、婚約に承諾を与えたかどうか疑わしいのではあるが。
また二人の年齢差に関しても、男性優位が常識であった時代、妻が年長となる結婚は王侯貴族同士の政略婚のような場合を除いてはいささか常識破りなものであった。
このようにマルクスの恋愛には進歩的な面がいくつもあったが、一方でそこには古典的なロマンスの要素も認められた。
婚約当時のカールはまだ大学生で、しかもボン大学での「不良」ぶりを見かねた父により遠方のベルリン大学へ転学させられてしまったため、結婚どころではなかった。そこで婚約後のふたりは、カールがベルリンから郷里で結婚の日を待つイェニーに宛てて愛の詩をせっせと書き送り、イェニーはそれを読んでは涙にむせぶといったもどかしい“遠距離恋愛”の関係となった。
こういう純愛的関係は、ふたりが婚約から7年後にようやく結婚にたどりついた後も変わらず、カールとイェニーのマルクス夫妻は終生連れ添い、乳児のうちに亡くした子を含めて6人の子をもうけ、共に裕福な家庭に育った者同士としては考えられないほどのどん底生活の中にあっても、家庭的幸福は享受し続けたのだった。
マルクスのこうした進歩‐保守的な恋愛とその結果としての結婚生活は、彼が―決して女性差別主義者ではなかったが―自覚的なフェミニストとなることはなかったことを説明する手がかりとなるかもしれない。その点では、法律婚制度そのものに否定的で、自らひとりの労働者階級の女性と事実婚を実践し、子も残さなかった盟友エンゲルスが近代フェミニズムの先覚者となったのとは対照的であった。