第1部 略
第1章 人格形成期
(4)古代唯物論研究
博士論文執筆
青年ヘーゲル学派への参画を通じて、マルクスは哲学研究者・大学教員の道を志望するようになっていた。そのための資格要件として、哲学博士号の取得が必要であった。そこで、マルクスは1839年から博士論文の執筆に取りかかる。
彼が選んだテーマはヘレニズム期の古代哲学、特にエピクロス派、ストア派、懐疑派の研究であった。これはバウアーらの示唆によるもので、「自己意識」をキーワードとする青年ヘーゲル学派にとって古代ギリシャ末のポリス解体期に現れたこれら哲学思潮が通有する個人主義的自己意識―わけても「快楽主義」の祖であるエピクロス派―は導きの糸たり得たからである。
ただ、マルクスが博士論文『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の相違』で取り上げたのは、そうした自己意識云々よりはエピクロスと彼が継承したデモクリトスの唯物論との比較研究であった。これを見ると、マルクスの唯物論への関心はすでにこの頃から芽生えていたようである。
「笑う人」の異名を持つデモクリトスは原子論の祖で、宇宙の一切のものをアトム(原子)なる分割不能な微粒子の運動法則の結果として説明しようとした点で、元祖唯物論者とも言える人物であった。デモクリトスの原子論は、極めて原初的な把握の仕方においてではあるが、今日の物理学における素粒子論の遠い先駆けをも成していた。
これに対して、デモクリトスのおよそ一世紀後に出るエピクロスはデモクリトスの原子論を継承しつつも、万物をアトムの必然的な運動法則で説明することに反対し、アトムの運動の中には不規則な逸脱もあることを主張した。ここから、人間の行為における苦痛からの不規則な逸脱としての快楽(アタラキシア)をもって人生の目的とみなす快楽主義の倫理学も導かれるのである。
エピクロスはそう考えることで、必然には還元できない自由や偶然の領域を認めつつ、社会的活動からは身を引いて、個人的な快楽―エピクロスの本意からすれば「平静」とでも訳すほうが的確と思われる―に身を委ねるべきことを説くのである。
前記博士論文において、マルクスはともに唯物論者としてのデモクリトスとエピクロスを比較検討する中で、エピクロスに軍配を上げている。これは、唯物論者にして革命家ともなった後年のマルクスからすると意外な感じを受ける。
しかし、このことは当時のマルクスがまだ青年ヘーゲル学派の「自己意識の哲学」の影響下にあったためというだけでなく、マルクスの思想形成にあっては終生「自己意識」―ひいてはヒューマニズム―が通奏低音のように鳴り響き続けていくことを予感させるものであった。もっとも、その通奏低音は次第次第に弱くなっていき、最終的にはかなり純度の高い唯物論に到達するのではあるが。
博士号取得と「卒業」
マルクスは1841年、執筆に二年半を費やした博士論文を完成させた。問題は提出先であった。この頃、在籍するベルリン大学では大きな異変が起きていた。ベルリン大学創設にも尽力し、ヘーゲル学派全般に好意的であったプロイセンの文部大臣が死去し、後任の保守的な新大臣は大学から自由主義的傾向の教員を追放する方針をとり、ヘーゲル学派排除のためドイツ・ロマン主義の大御所哲学者シェリングをベルリン大学に招聘したのだ。
一方、ドクトル・クラブにおけるマルクスの「恩師」にして同志でもあったバウアーが39年にボン大学へ転出していたこともあり、結局マルクスは論文をベルリン大学でなく、イェ-ナ大学へ提出することになった。このイェーナ大学もかつてヘーゲルが教鞭を取ったことのあるヘーゲルゆかりの大学であった。
その結果、彼は41年4月、同大学哲学部から無事博士号を取得する。ボン大学入学時からベルリン大学転学を経ておよそ五年半、23歳になろうとしていた。これでマルクスの学業は修了したわけであるが、結局彼はベルリン大学法学部をまともに卒業することはなく、畑違いの哲学の道に逸れたうえ、在籍していない他大学を「卒業」したのであった。まさにエピクロスの不規則逸脱運動のようであった。
ちなみに、41年には先のフォイエルバッハが『キリスト教の本質』を出し、バウアーもヘーゲル哲学を無神論とみなすよりラディカルな『無神論者・反キリスト者ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』なる書を公刊した。青年ヘーゲル学派はとみに急進化する一方、プロイセン当局は締め付けを強めた。その結果、バウアーは42年、ボン大学講師を免職されてしまう。同様の運命が、首尾よく博士号を取得したばかりのマルクスにも降りかかってくることは避けられそうになかった。