第1部 略
第2章 共産主義者への道
(2)新聞編集者として(続き)
経済論争への関与
『ライン新聞』編集主幹としてマルクスが当面したのはもはや抽象的な哲学問題ではなく、現実の経済問題であった。
最初は木材窃盗取締法をめぐる論争である。これは当時、ライン州では貧農が周辺の森林の木材や枯枝を収集し薪にして生計を補うことが慣習となっていたところ、森林所有者の利益を代弁する州議会が無断で森林に立ち入って木材や枯木を収集する行為も木材窃盗罪に該当するとして刑事罰や民事賠償の対象とすることを決めたことをめぐって、マルクスがこれを厳しく批判する論陣を張った一件である。
彼はこの木材窃盗取締法が貧民の生活を犠牲にしつつ森林所有者の利益を守ろうとする悪法であり、それは人間の権利を尊重するのでなく木を物神として崇拝するに等しいものだと喝破した。そして貧民の木材・枯木収集は実定法に反する行為であっても、本来の法正義に合致する正当な慣習的権利であるとして、その回復を要求したのである。
この問題の実質はまさに有産階級と無産階級の利害衝突を背景とする経済問題であるが、法律問題の衣を被っていることから、マルクスは彼本来の専攻であった法学の観点から、まるで貧民側弁護士の弁論のような調子で論陣を張ったわけだが、この一件はマルクスがやがて経済学研究に自己のフィールドを移していくうえで最初のきっかけとなる強い印象を残したことは間違いない。
ここには、彼が後に商品という近代的物象に関して析出した「物神崇拝」のモチーフが、商品とも交錯する「所有権」という近代的法観念に絡めて早くも提示されているのである。
続いてモーゼル農民問題では、マルクスの郷里にも近いモーゼル地方の伝統的なぶどう酒栽培農民が不況で窮乏し、重税にあえいでいる状況が放置されていることを訴える通信員の論説について、ライン州当局が事実の歪曲と政府誹謗を理由に訂正を要求してきたことに対し、マルクスは具体的な資料に基づいて記事を擁護するとともに、官僚的な行政の無策を厳しく批判した。
このモーゼル農民問題は先の木材窃盗問題ほど理論的な問題を含んではいない代わりに州当局との衝突という政治問題を引き起こしたため、『ライン新聞』の先行きに暗雲が立ち込めることとなった。
この他、マルクスは「土地所有の細分化」や「自由貿易と保護関税」など今日でもアクチュアリティーを持ち得るような種々の経済論争に取り組む中で、自身の法学的‐哲学的な素養だけでは解くことのできない経済問題の困難さを認識するようになる。
「自由人たち」との対立
なかなか有能なマルクス編集主幹の下、『ライン新聞』は部数を伸ばしていったが、モーゼル農民問題以来、当局の監視と検閲も強まってきた。
一方、ライバル紙『アルゲマイネ・ツァイトゥング』からは、共産主義的偏向との非難攻撃を受けるようになっていた。これにはたしかに理由があった。実際、ベルリンを中心に活動し『ライン新聞』にも寄稿していたかつてのドクトル・クラブの仲間たち―マルクスの言う「自由人たち」―の間では当時フランスで流行していた共産主義思想の影響を受けた者たちが、マルクスに言わせれば「独自の深い内容でなく、ほしいままの過激でしかも安直な形式」の原稿を送りつけるようになっていた。こうした原稿は検閲にもひっかかりやすく、マルクスを悩ませていた。
もっとも、当時はマルクス自身まだ共産主義者になっておらず、せいぜい左派色の強い自由主義者といった線にとどまっていたから、共産主義には共感できずにいた。というよりも、後年マルクス自身が率直に認めたように、当時のマルクスの素養ではフランスを中心に隆盛となっていた社会主義・共産主義の新しい思潮そのものについても、当否の判断を下すことができなかったのだ。
そうした公私の事情から、編集主幹マルクスは「自由人たち」の原稿を大量にボツにせざるを得なかった。そして、それは当然にも「自由人たち」との対立を招かざるを得なかった。
もっとも、「自由人たち」の中ではマルクスにとって格別の存在であったバウアーは自身決して共産主義に接近することはなかったが、結局マルクスはバウアーとも不和に陥ってしまった。その一方で、かつてハレ大学講師で南部の青年ヘーゲル学派のリーダー格でもあったアーノルト・ルーゲとの交流は深まっていく。