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マルクス/レーニン小伝(連載第3回)

2012-07-18 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第1章 人格形成期

(3)ヘーゲル哲学との出会い

ベルリン大学転学
 先に述べたように、マルクスは父の意向でボン大学からより著名で都会的なベルリン大学に転学させられた。学部は同じ法学部。父としてはこれで息子が改心し、法律の勉学に力を入れて取り組むようになることを期待したのであろうが、かえって逆効果であった。カールがトリーアから遠く離れたベルリンで始めたことと言えば、婚約者イェニーに相変わらずロマンチックな詩を書き送ることと、畑違いの哲学の勉強であった。
 とりわけ、後者はマルクスの知的道程においては決定的な意味を持った。その点で、彼は父の転学命令に感謝しなければならなかっただろう。
 彼が特に傾倒したのは、当時まだ一世を風靡していたヘーゲル哲学である。ヘーゲルは奇しくもマルクスが生まれた1818年にベルリン大学教授に着任していたが、31年にコレラで急逝したため、36年にベルリンへやってきたマルクスがヘーゲル教授の講義を聴くことはかなわなかった。しかし当時はまだヘーゲルが没して5年ほどで、ベルリン大学はヘーゲル学派の一大拠点であったのだった。
 ベルリン大学時代のマルクスは法学の講義にはほとんど出ずに、ヘーゲル哲学を中心とした哲学の独習にいそしんだのであるが、どうやらヘーゲルには初めから違和感を覚えたらしく、ヘーゲルの精緻な弁証法的思考に敬服しつつも、彼に言わせればヘーゲル哲学の「グロテスクでごっつい」調子にはついていけないものも感じていた。
 大学の講義には出なかったとはいえ、徹夜の勉学を重ねたマルクスは間もなく健康を損ね、転地療養する羽目となる。一方、ベルリンでも態度が改まらないどころか、畑違いの方向に流れていく息子の将来を案じ、腹も立てていた父ハインリヒは、マルクスが20歳になって間もない38年5月に没した。
 マルクスは父の死を表向き深刻に受け止めながらも、これで彼に弁護士を継がせようとする父の意志から解放されたこともたしかであった。マルクスにとって、最初の「解放闘争」の終了である。

「青年ヘーゲル学派」への参画
 マルクスは転地療養から間もなく、ベルリン大学の若手教員や学生が結成していた思想グループ「ドクトル・クラブ」に参加する。これは思想家マルクスにとって初めの一歩となる画期的な出来事であった。
 このグループは気鋭の同大学講師ブルーノ・バウアーが指導する進歩的な思想グループで、ヘーゲル哲学から出発しながらも、その現状保守的な性格を批判・超克していこうとする点で、ヘーゲルの教えを忠実に護っていこうとする「ヘーゲル右派」や、中立的で哲学史に重点を置く「ヘーゲル中央派」に対して、「ヘーゲル左派」とも呼ばれ、また「青年ヘーゲル派」とも称される当時のドイツ哲学界では最前衛のグループであった。
 彼らは世界の一切を精神(理性)の自己展開的プロセスとしてとらえるヘーゲルの弁証法が、結局はその精神の本質をキリスト教に求め、なおかつ精神の最高の完成態を国家に見出そうとすることで、ウィーン体制下の反動政治を正当化する結果となっていることを批判し、より主体的な類的人間としての「自己意識」によってキリスト教と現存プロイセン国家を乗り超えていく自由主義的な哲学を構築しようと努めていた。
 こうした志向性を持つグループに、トリーアのフランス的自由主義の風土で育ったマルクスが飛び込んでいったのは自然な流れであった。元来怜悧な無類の論争家であるマルクスは、後から参加しながらグループ内でたちまち頭角を現し、リーダーのバウアーからも頼りにされる中心的な存在となっていった。
 ただ、「青年ヘーゲル学派」が共有する「自己意識の哲学」はなお唯心論的な傾向を免れておらず、後年のマルクスの強固な唯物論的思考とは距離がある。しかし大学時代のマルクスは、さしあたりまだ完全な意味での唯物論者とはなっていなかった。
 とはいえ、彼が最も影響を受けたのはバウアーではなく、間もなく反響を呼ぶ宗教批判書『キリスト教の本質』を著すヘーゲル学派内でも最年長かつ最も唯物論的傾向を示していたルートヴィヒ・フォイエルバッハであった。人間が自らの苦悩や願望などの投影として自ら造り上げた神なるものに束縛され、かえって生きた現実としての人間性を喪失してしまう自己疎外を喝破したこの控えめな哲学者こそ、17歳の時のギムナジウム卒業論文では「人間も神によって人類及び自己自身を高めるように定められている」と記していたマルクスを唯物論へ導いたのであった。

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