第1部 略
第3章 『資本論』の誕生
(4)主著『資本論』(続き)
『資本論』第1巻の意義
エンゲルスは主著『空想から科学へ』の中でマルクス最大の「発見」として唯物史観と剰余価値とを挙げているが、このうち特に剰余価値論を中心的に打ち出したのが『資本論』第1巻(以下、単に『資本論』という)であった。
エンゲルスによれば、剰余価値こそ資本主義生産様式とそれによって生み出されたブルジョワ社会の特殊な運動法則にほかならないのであり、マルクス理論を「科学」たらしめる基本概念とされる。しかし結局のところ、この概念はいわゆる「マルクス経済学」の世界を除いては正規の経済学概念として受容されることはなかった。なぜであろうか。
マルクスが「発見」したとされる剰余価値とは、彼の経済学研究の出発点をなす『経済学・哲学草稿』ではごく常識的に資本による労賃節約として説明されていたものを、より「科学的」に突き詰めて、資本は労働者をしてその生活費(及び繁殖費)をまかなうための必要労働分(例えば4時間労働分)を超えて働かせること(例えばさらなる4時間労働分)を通じて、すなわち剰余労働によって生み出された剰余価値を搾取していると説明し直したものであった。
この場合、資本としては労働者に必要労働と剰余労働合わせて8時間労働を課しながら実際上は必要労働分の4時間労働相当分の賃金しか支払わず、残り4時間分については実質上タダ働きを強いている。よって、この設例では搾取率(剰余価値率)は四分の四すなわち100パーセントという丸取り的搾取が行われていることになる。言い換えれば、労働力商品の買主たる資本家はこの労働力商品本来の価値(4時間労働分の賃金相当額)を超えて酷使しているのである。
こうした場合も、通常の資本家(経営者)の意識の上では賃金を抑えて人件費を節約しているにすぎないのであるが、マルクスはこれを「科学的」に解析して、資本はより積極的に剰余価値の生産を基本として回っていることを「発見」したと信じたのである。『資本論』の中で、マルクスは「資本の一般的な必然的傾向性はその現象形態とは区別されなければならない」と指摘する。
マルクスのこのような方法論は、あたかも現象的には不可視の深層構造を学理的な解析によって析出してみせようとする後の「構造主義」の先駆けのようでもあるが、まさにそこに死角があった。彼が「発見」したと信じたものは、実は錯覚であった―そう言って悪ければ学理的なオーバーランであった。
たしかに労働力は常に資本によって安く買い叩かれるが、それは人件費の節約という経営実務家の経験的意識で説明したほうが真実に近いのである。ただ、節約によってそこに消極的な価値(利得)が生じることは事実であるが、これを積極的な価値(利得)として「発見」してしまったところにマルクスのオーバーランがあったのである。
資本は搾取によって積極的に剰余価値を生産し、その一部を蓄積することで自己を増殖するというよりは、搾取による消極的な節約利得が十分留保されるような価格で商品を売ること―また他の必要経費をも節約すること―で自己を維持・拡大していくのである。
では、この主流派経済学においてはほとんど顧みられることのない剰余価値の概念は全く“無価値”なのかと言えば、決してそうではない。この概念は資本と労働の関係を単に経済的なものから政治的なものへと変換するうえで有効なのであり、その意味では剰余価値は政治学的概念であると言ってもよい。
実際、マルクスはまさに『資本論』の中で「資本は自己の労働者に対する自己の専制を、他のところではブルジョワジーがあれほどに愛好する分権もそれ以上に愛好する代議制もなしに、私的法律として自分勝手に定式化している」と指摘しているし、より大きくは「アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政官などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、それは彼が単独の資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらない」とも述べて、資本(家)と労働(者)の関係をまさに政治的にとらえようとしている。
こういう一見独特な把握の仕方の背後には、政治的なものの出発点を労働の場における階級闘争に置こうとするマルクスの視座が控えていることは容易に見て取れるであろう。剰余価値、あるいはもっと端的に搾取は、そうした階級闘争の動因の擬似経済学的な表現にすぎないとさえ言えるのである。
むしろ『資本論』の社会科学的な真の貢献は剰余価値論よりも、それが労働経済学ないし労働社会学の先駆けをなした点にこそあるだろう。実際、この本の表題は『労働論』と改題してもおかしくないほど、「資本」と同等かそれ以上に「労働」を主題としている。そしてマルクスが『資本論』を通じて確立した「労働」そのものと区別された商品としての「労働力」、そしてその労動力商品の売り手たる労働者と買い手たる資本家が相対する「労働市場」という想定などは、今日マルクスに反対したり、完全に無視する論者によっても普通に用いられているところである。
いずれにせよ『資本論』はマルクスの主著でありながら、前著『政治経済学批判』と同様に難解であり、一般向けの本とは言えない。そのうえに、第2巻以降は他人が編集しての死後出版となった。そのために後世「マルクス主義者」を自称した人々の間でもいったいどれだけ人がこの『資本論』全巻を細部まで読み込んで完全に理解し得たか甚だ疑わしいのである。
おそらく『資本論』はまだ完全に読み込まれてはいない。その中にはまだ十分に掘り尽くされていない可能性の原石が埋まっていると推定されるのである。