ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第21回)

2012-09-20 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(3)パリ・コミューンへの関与

普仏戦争への反対
 マルクスが第一インターにおける活動として最も大きな足跡を残したのは1871年のパリ・コミューンへの関与であったが、コミューンの前哨戦として前年に勃発した普仏戦争があった。第一インターは総評議会名で二つの声明を出して戦争に反対した。
 いずれの声明も実質的にマルクスの手になる論説形式の長い声明文である。彼はドイツとフランス双方の労働運動が参加する第一インターにあって両国の労働者階級が分断されないよう相当に腐心している。
 戦争の経緯からすると、スペイン王位継承問題をめぐる対立を契機に、フランスがプロイセン側の挑発に乗せられる形で始まった普仏戦争に関し、第一声明はこの戦争をプロイセンにとっての防衛戦ととらえたうえ、プロイセンがこの戦争をフランス侵略戦争に転化しようとすることに反対するようドイツ労働者階級に求めたものである。
 第二声明は実際にプロイセンがその優勢な軍事力をもってフランス侵略に出ようとする中で、フランス・プロイセン国境のアルザス・ロレーヌ地方のプロイセン併合に反対するようドイツの労働者階級に呼びかけるとともに、フランスの労働者階級に対してはプロイセン軍がパリに迫ろうとする中で、第二帝政崩壊後の新たな共和政(第三共和政)を直ちに倒そうとすることを時期尚早としていさめたのであった。
 こうしたマルクスの努力は実らず、フランスはプロイセンの軍門にくだり、ルイ・ボナパルトがプロイセン軍の捕虜となって崩壊した第二帝政に代わって成立した第三共和政政府は71年1月、プロイセンに降伏し、2月にはアルザス・ロレーヌ地方の大部分の割譲を含む屈辱的な仮講和条約をプロイセン中心に統一されたばかりのドイツ帝国との間で締結したのである。
 このような第三共和政の屈従的な外交姿勢に憤激したパリ民衆が3月に武装蜂起し、パリに一種の革命的解放区を設立した。これがパリ・コミューンである。

パリ・コミューンへの支援
 マルクスは、普仏戦争に関する第一インター第二声明でも触れていたように、フランスで成立したばかりの第三共和政に対する即時のプロレタリア革命には否定的であり、むしろこのブルジョワ共和政の下で生じ得る自由をプロレタリア革命へ向けた組織化のために利用することを要請していたのであった。彼は前章でも見た「革命の孵化理論」からしても、機の熟さない早まった革命的蜂起の非現実性を強く認識していたからである。
 しかし、パリ民衆は革命的行動に打って出てしまった。これはその経緯からすると、第三共和政の対独屈従外交への怒りに端を発しているので、純粋に「プロレタリア革命」と言い難い面もあった。しかしマルクスはパリ民衆の蜂起をプロレタリア革命とみなし、その結果成立したパリ・コミューン組織を「労働者階級の政府」と認めて支援に乗り出したのである。
 実際のところ、当時のフランス労働運動の中ではコミューンの6年前に没したプルードンの影響がかなり残っていた一方、マルクスの理論はまだ浸透していなかった。しかし、マルクスはコミューン関係者に対して手紙を通じて精力的に助言した。
 一方、コミューンが局地的な反乱に終わらないよう、マルクスはエンゲルスや次女ラウラの夫ポール・ラファルグらとも協力しながら、フランス西南地方でもパリ・コミューンに呼応した民衆蜂起を起こさせるべく種々の工作を行ったほか、他国の労働者階級に対してもパリ・コミューンとの連帯行動を取るよう手配もした。
 しかし、マルクスの当初の危惧と警告が正しかったことが間もなく証明された。パリ・コミューンは結局、ドイツ軍の支援を受けたフランス政府軍の武力鎮圧作戦の結果、約2万人とも言われる犠牲を出してわずか70日余りで崩壊し去ったのであった。

コミューンの敗北とその分析
 パリ・コミューンはこうしてブルジョワ支配体制の前に完全に敗北してしまった。マルクスは再び第一インター総評議会名で長文の声明を出し、コミューンの意義とその敗因について詳細な分析を加えた。
 「それ(コミューン)は本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、その下で労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であった」という有名な命題を含むこの声明は、大きな犠牲を払ったコミューンに対する追悼の色調を帯びているために、コミューンへのやや過大な評価が散見されなくもないが、マルクスはコミューンの敗因分析を否定的な論難の形式で行うのでなく、むしろコミューンへのオマージュの形式で、現実にそうであったコミューンの姿と、本来そうあるべきであったコミューンの理念型とを交錯させながら論じようとしている。
 それとともに、マルクスはこの分析を通じて、『共産党宣言』をはじめ従来の著作では明らかにしてこなかったプロレタリア革命の結果生ずるべき政治制度の一端をも明らかにしたのである。
 マルクスのよく知られた、しかしよく誤解されるテーゼは「コミューンは議会制ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた統治体であった」というものである。マルクスが声明とは別の機会にコミューンを「プロレタリアート独裁」と規定したことから、マルクスは議会制民主主義を否定する共産党独裁政治の支持者であるというような誤解もいまだに根強い。
 たしかにマルクスはお喋りの府にすぎない議会を称賛する単純な議会制の支持者ではなかったが、しかし代議制を否定するものでなかったことは、先の命題のもう少し後のところで、「各地方の農村コミューンは中心都市における代議員会議によってその共同事務を処理すべきであり、かつこれらの地方会議がさらにパリにおける全国代議員会議に代議員を送るべき」云々と複選制に基づく代議政体のあり方に言及していることで判明する。
 しかも、この代議制は代議員が選挙人によっていつでもリコールされ得る命令委任を採るべきものとされている。そして司法官を含む公務員も選挙され、かつリコールされ得るものでなければならない。そのうえ常備軍は廃止される。
 こうしてみれば、マルクスの「プロレタリアート独裁」とは、議会制民主主義よりもずっと急進的な民主主義体制を予定していたとさえ言えるのであり、この「独裁」という語は通常意味されるものとは別様に解されなければならない。これについては、バクーニンのマルクス批判論とも絡めて次節で改めて検討することにしたい。

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