ザ・コミュニスト

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いじめとシニシズム

2012-09-22 | 時評

いじめ自殺やその疑いが持たれる児童生徒の自殺が全国で続発する中、改めていじめに関する論議が盛んになっている。ただ、その多くは技術的・瑣末的な「対策」のレベルにとどまり、いじめの本質に迫り、その根本的な克服につながるようなものではない。

そもそもいじめとは何かという本質が究明把握されていないため、技術的な「対策」さえ的外れなものに終わりかねない。

当事者が自殺に追い込まれるようないじめとは、単なる「仲間はずれ」ではない。「仲間はずれ」は人間関係のもつれから生じることで、人間集団ある限り、不可避的な現象である。

一方で、暴行・傷害、脅迫・恐喝といった犯罪行為が認められる場合は、もはや「いじめ」の域を越え、少年非行問題として警察が介入すべき「事件」である。

結局、正真正銘のいじめとは、容姿の特徴(全体的な印象も含む)を理由とする差別行為―またはその修正版としての仕草の癖(例えばまばたき)を理由とする差別行為―である。そうであれば、警察に解決を委ねても無理である。なぜなら差別はそれだけでは犯罪に該当しないからである。

このことを確認したうえで、何故にそうした(広い意味での)容姿差別が学校現場で横行するかを考えるに、児戯に属するいじめといえども、その基底には子どもなりの“哲学”がある。その“哲学”とは、シニシズムである。

執拗・陰湿ないじめ行動の背景には、間違いなく相手に対する冷笑的態度がある。自分よりも劣等的と思われる特徴を持つ者を発見すると、その標的を蔑視・冷笑し、自己の劣等感を埋め合わせるのである。

実はこうした歪んだシニシズムは成人の世界にも蔓延しており、それは親の日頃の言動やシニシズムの実践を商売にしているかのごとき「芸能人」が出演する俗悪テレビ番組などを通じて、子どもの世界にも浸透していっているのである。

シニシズムの語源であるキュニコス派とは古代ギリシャ哲学の一派であったが、その最も著名な代表者シノペのディオゲネスは、ボロをまとい、大樽を住処とする野宿生活の哲学者であった。

彼は弱き者・持たざる者を冷笑する現代のシニシズムとは異なり、自ら弱き者・持たざる者の立場に身を置き、強き者・持てる者の滑稽さを風刺的に冷笑した。いじめとは全く逆である。シニカルであるということの原点に立ち戻れば、いじめを克服する道も逆照射されてくるだろう。

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