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晩期資本論(連載第21回)

2015-01-13 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(4)

資本主義的生産は単に商品の生産であるだけでなく、それは本質的に剰余価値の生産である。労働者が生産するのは、自分のためではなく、資本のためである。だから、彼がなにかを生産するというだけでは、もはや十分ではない。彼は剰余価値を生産しなければならない。生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。

 資本主義を剰余価値の生産という視点から見た比較的わかりやすい総まとめである。マルクスはさらに具体例として、「物質的生産の部面の外」から教育労働者=教師の例を挙げ、「学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。」と皮肉交じりに述べている。
 マルクスが『資本論』で取り上げる労働者は断りない限り、物質的な商品を生産する工場労働者を想定しているが、ここで商品生産に従事しない教師の例が出されていることは、教育にも資本の支配が及び、営利企業系(株式会社)の学校が出現している時代を先取りするような先見性が認められる。

労働者がただ自分の労働力の価値の等価だけを生産した点を越えて労働日が延長されること、そしてこの剰余労働が資本によって取得されること―これは絶対的剰余価値の生産である。それは、資本主義体制の一般的な基礎をなしており、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。この相対的剰余価値の生産では、労働日ははじめから二つの部分に分かれている。すなわち、必要労働と剰余労働とに。剰余労働を延長するためには、労賃の等価をいっそう短時間で生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。

 絶対的剰余価値と相対的剰余価値に区別に関する総まとめである。これに続けて、マルクスは資本と労働の関係という観点から、絶対的剰余価値生産を「資本のもとへの労働の形式的従属」、相対的剰余価値生産を「資本のもとへの労働の実質的従属」とも表現している。つまり、形式的に「ただ労働日の長さだけを問題にする」絶対的剰余価値の生産と、より実質的に「労働の技術的諸過程と社会的諸編成とを徹底的に変革する」相対的剰余価値の生産の相違を言い表したものである。

労働力がその価値どおりに支払われることを前提とすれば、われわれは次の二つのどちらかを選ばなければならない。労働の生産力とその正常な強度とが与えられていれば、剰余価値率はただ労働日の絶対的な延長によってのみ高められうる。他方、労働日の限界が与えられていれば、剰余価値率は、ただ必要労働と剰余労働という労働日の二つの構成部分の大きさの相対的な変動によってのみ高められ、この変動はまた、賃金が労働力の価値よりも低く下がるべきでないとすれば、労働の生産性かまたは強度の変動を前提する。

 マルクス経済理論における最も重要な経済指標となる剰余価値率の変動要因をまとめた定理である。最終的にマルクスは、労働力の価値と剰余価値の相対的な大きさを決定づける要因として、①労働日の長さ、すなわち労働の外延量②労働の正常な強度、すなわち労働の内包量③労働の生産力の三要因を抽出し、各々が可変的ないし不変的であるような様々な場合を想定して縷々数理的に検証している。
 その最後のところで、マルクスは労働の持続性と生産力、強度が同時に変動する場合を取り上げ、その中で(1)労働の生産力が低下して同時に労働日が延長される場合と(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合との対照を試みている。このうち、(1)の実例として、1799年から1815年にかけての英国で、実質労賃が下がったのに名目賃金が引き上げられた状況で生活手段の高騰が生じたケースを挙げ、次のように分析する。

・・・高められた労働の強度と強制された労働時間の延長とのおかげで、剰余価値は当時は絶対的にも相対的にも増大したのである。この時代こそは、無限的な労働日の延長が市民権を獲得した時代だったのであり、一方では資本の、他方では極貧の、加速的な増加によって特別に特徴づけられた時代だったのである。

 実は、このような絶対的‐相対的剰余価値の総合的増大こそは、資本家・経営者が思い描く資本主義経済の理想状態である。しかし、それは一般労働者大衆にとっては生活難を意味する。これと類似の現象は「アベノミクス」下の現代日本でも起きている。

資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。

 これは先の二つの場合のうち、(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合を想定した指摘であるが、このようなことは資本主義体制では実行不能であり、まさに「資本主義的生産形態の廃止」をもって実現する。『資本論』は基本的に資本主義経済体制の分析の書であって、未来の共産主義経済体制のあり方を議論の対象外としているが、ここでマルクスは補足的に、共産主義経済体制のありように言及している。
 マルクスが想定する共産主義社会では、剰余価値生産の源泉である剰余労働が消え、必要労働に純化されるとともに、剰余労働の一部は備蓄生産や福祉的な生産を目的とする必要労働に転換される。さらに進んで―

労働の強度と生産力とが与えられていれば、労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されているほど、すなわち社会の一つの層が労働の自然必然性を自分からはずして別の層に転嫁することができなければできないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、したがって、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる。

 「労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されている」社会とは、共産主義社会のことである。これに対して、「資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである」。会社社長が観劇に興じる時間は、彼が雇用する労働者の生活時間の大半が労働に充てられることで作り出されている。反対に、社長自ら工場のラインに立つならば、他の労働者にも観劇を楽しむ時間が作り出されるというわけである。

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