序
冷戦時代の米ソ二極化がソ連の解体・消滅により終了して四半世紀を越え、世界の多極化が指摘される中、中国の経済成長に伴い、中国のパワーが増してきている。現代中国に対する評価は毀誉褒貶入り乱れるが、意外にその憲法には関心が持たれていない。憲法は国の仕組みの公式解説書としての意義を持つ法典であるから、現代中国を理解するうえでも不可欠のものである。
現行の中華人民共和国憲法(以下、単に中国憲法という。)は、「文化大革命」の大混乱を経て、いわゆる「改革開放」後の1982年に全面改正されたものであり、その後も「改革」の進展に合わせて数次にわたり部分改正が重ねられて今日に至っている。*本連載終了後、2018年にも改正がなされたが、当連載には反映されていない。
元来、中国憲法は旧ソ連憲法を参照して制定された1954年憲法が土台となった共産党支配を前提とする社会主義憲法であるため、今なお旧ソ連憲法との類似性を残してはいるものの、解体・消滅した旧ソ連とは異なり、体制の枠内で「改革開放」を経て「社会主義市場経済」への路線転換に成功したことを反映して、旧ソ連憲法とも異なる特色を備えた独自の憲法となっている。
本連載では、中国事情を紹介するウェブサイト『恋する中国』に掲載されている試訳に準拠しつつ、中国憲法を逐条的に評解していくことにする(意味内容が変化しない限度で一部訳語を変更するほか、文字化けする一部漢字はカタカタまたは日本式漢字で表記する。)。
前文
中国憲法前文は、旧ソ連憲法前文と同様、長文の論文スタイルで記述されているため、全文を紹介することは避け、要約評解にとどめる。
前文は大きく五つのまとまりに分けることができるが、「中国は、世界でも最も古い歴史を持つ国家の一つである。中国の諸民族人民は、輝かしい文化を共同で作り上げており、また、栄えある革命の伝統を持っている。」の文言で始まる第一の部分は、特にアヘン戦争が勃発した1840年以降、1911年の辛亥革命を経て、現代中国建設の出発点となった1949年の中国革命までの歴史が概観される。このような書き出しは、旧ソ連憲法前文に倣ったものと考えられる。
前文は1949年革命の歴史的意義について、「・・・毛澤東主席を領袖とする中国共産党に導かれた中国の諸民族人民は、長期にわたる困難で曲折に富む武装闘争その他の形態の闘争を経て、ついに帝国主義、封建主義及び官僚資本主義の支配を覆し、新民主主義革命の偉大な勝利を勝ち取り、中華人民共和国を樹立した。この時から、中国人民は、国家の権力を掌握して、国家の主人公になった。」と総括している。
続く第二の部分では、はじめに「中国の新民主主義革命の勝利と社会主義事業の成果は、中国共産党が中国の各民族人民を指導し、マルクス‐レーニン主義及び毛澤東思想の導きの下に、真理を堅持し、誤りを是正し、多くの困難と危険に打ち勝って獲得したものである。」として、マルクス‐レーニン主義と毛沢東思想を基軸的な二大原理として掲げる。そのうえで、「我が国は、長期にわたり社会主義初級段階にある。」との現状規定により、「中国の各民族人民は、引き続き中国共産党の指導の下に、マルクス‐レーニン主義、毛澤東思想、トウ小平理論及び「三つの代表」の重要思想に導かれて」、「社会主義現代化の建設をする事」という未来目標が示される。
これにより、中国式社会主義におけるマルクス‐レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論、さらに「中国共産党は、①中国の先進的な社会生産力の発展の要求②中国の先進的文化の前進の方向③中国の最も広範な人民の根本的利益という三要素を代表すべき」とする江沢民の「三つの代表」理論を加えた四つの指導原理が示されている。
ここで注目されるのは、旧ソ連憲法のように現状を「共産主義建設に至る途上としての発達した社会主義社会」とは規定しておらず、現状をなお「社会主義初級段階」と規定しつつ、未来目標を「社会主義現代化」という中期目標にとどめていることである。つまり共産主義社会の建設は現実的な未来目標には置かれていない。ここに「改革開放」以降の中国の現実主義路線が見て取れる。
こうした第二の部分を受けて、第三の部分は冒頭で「我が国では、搾取階級は、階級としては既に消滅したが、なお一定の範囲で階級闘争が長期にわたり存在する。中国人民は、我が国の社会主義制度を敵視し、破壊する国内外の敵対勢力及び敵対分子と闘争しなければならない。」とし、毛沢東思想に沿った一種の永続革命論的な闘争目標が示される。それと関連づけて、「中華人民共和国の神聖な領土の一部」と明記される台湾の統合が掲げられるとともに、中国共産党を中核とした統一戦線組織としての中国人民政治協商会議の重要性が示される。
第四の部分は話題を転じて、「中華人民共和国は、全国の諸民族人民が共同で作り上げ、統一した多民族国家である。」の規定に始まり、対内的な民族協調及び対外的な国際協調が謳われる。
民族協調に関しては、「大民族主義、主として大漢族主義に反対し、また、地方民族主義にも反対しなければならない。」とし、漢民族至上主義を諌めると同時に、少数民族の分離独立運動を牽制する文言も示される。
一方、国際協調に関しては、主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵及び平和共存の五原則(1954年に当時の中印首相会談で合意された平和五原則)に立脚しつつ、「帝国主義、覇権主義及び植民地主義に反対することを堅持し、世界諸国人民との団結を強化し、抑圧された民族及び発展途上国が民族の独立を勝ち取り、守り、民族経済を発展させる正義の闘争を支持して、世界平和を確保し、人類の進歩を促進するために努力する。」という対外政策の基本が示される。ここには、中国も当事国であった非同盟諸国運動の理念が反映されている。
最後の第五の部分で憲法の最高法規性が宣言されるが、ここでは人民の憲法制定権力は強調されず、「全国の諸民族人民並びにすべての国家機関、武装力、政党、社会団体、企業及び事業組織は、いずれもこの憲法を活動の根本準則とし、かつ、この憲法の尊厳を守り、この憲法の実施を保障する責務を負わなければならない。」という憲法忠誠義務の宣言でしめくくられていることが特徴である。