五 労賃の秘密(1)
ブルジョワ社会の表面では、労働者の賃金は労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現れる。
これは『資本論』冒頭の書き出し「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。」と並び、商品と労賃を基軸として成り立つ資本主義社会の特質を端的に表現する一句である。
労働市場で直接に貨幣所持者に向かい合うものは、じっさい、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば、それはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。
労働者の主観においても、労賃は「労働の価格(対価)」と認識されているであろうが、マルクスの理解によれば、労賃とは商品としての「労働力の価格」であって、労働の価格ではない。このような理解の仕方は、マルクスから「労働市場」という概念だけは取り込んだ現代経済理論にあっても浸透していない。それは、最先端の現代経済理論にあっても基本的に古典派経済学の域を出ていないからである。
古典派経済学は、日常生活からこれという批判もなしに「労働の価格」という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにこの価格が規定されるか?を問題にした。やがて、古典派経済学は、需給供給関係のほかには、労働の価格についても、他のすべての商品の価格についてと同様に、この価格の変動のほかには、すなわち市場価格が一定の大きさの上下に振動するということのほかには、なにも説明するものではないということを認めた。
実際、主流的な経済理論では、景気循環に伴う労働市場における賃金水準の変動しか論議の対象とならず、労賃のからくりについては視野の外に置かれたままである。
・・・労賃という形態は、労働日が必要労働時間と剰余労働時間とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去る。すべての労働が支払労働として現れるのである。
マルクスはこうした賃労働の特質を明らかにするため、「賦役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される」農奴の賦役労働と、「労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる」奴隷労働とを対比している。
つまり、労賃は「労働の対価」という衣を纏うことによって、実は無償で働かされている剰余労働の部分を労働者自身に対しても隠しているというわけである。このことをマルクスは「労賃の秘密」と呼び、「労賃の秘密を見破るためには世界史は多大の時間を必要とするのであるが、これに反して、この現象形態の必然性、存在理由を理解することよりもたやすいことはないのである。」とも指摘している。
「労賃の秘密を見破る」という課題こそ、マルクスが『資本論』を通じて示そうとしたことでもあるが、その際、マルクスは表面的な現象形態とその背後に隠されているものとの明確な区別を説き、次のような一般的な注意点を提示している。
現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。