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晩期資本論(連載第24回)

2015-01-27 | 〆晩期資本論

五 労賃の秘密(2)

労賃はそれ自体また非常にさまざまな形態をとるのであるが、この事情は、素材にたいする激しい関心のために形態の相違には少しも注意を払わない経済学概説書からは知ることのできないことである。

 たしかに通常の経済学の教科書に労賃形態の詳しい分析は載っていない。それは、一つには、長きにわたり、資本主義的労賃形態は月給制に代表される画一的な時間賃金であったせいもあろう。しかし、晩期資本主義では、賃金体系の多様化の名の下に、種々の搾取的な労賃形態が登場してきており、分析の必要は高まっている。

労働力の売りは、われわれが記憶しているように、つねに一定の時間を限って行なわれる。それゆえ、労働力の日価値、週価値、等々が直接にとる転化形態は、「時間賃金」という形態、つまり日賃金、等々なのである。

 労賃は様々な形態をとるとはいえ、基本的には労働時間に応じた時間賃金の性質を持つことは現代でも変わりないところである。アルバイトの時給は典型的な時間賃金であるが、月給でも本質は同じである。

時間賃金の度量単位、一労働時間の価格は、労働力の日価値を慣習的な一労働日の時間数で割った商である。かりに一労働日は一二時間であり、労働力の日価値は三シリングで六労働時間の価値生産物だとしよう。一労働時間の価格はこの事情のもとでは三ペンスであり、その価値生産物は六ペンスである。ところで、もし労働者が一日に一二時間よりも少なく(または一週に六日よりも少なく)、たとえば六時間か八時間しか働かされないとすれば、彼は、この労働の価格では、二シリングか一・五シリングの日賃金しか受け取らない。

 労働時間の短縮は労働者に有利に見えるが、労働の価格はかえって引き下がり、資本にとっては有利な面がある。この逆説について、マルクスは「人々は、前には過度労働の破壊的な結果を見たのであるが、ここでは労働者にとって彼の過少就業から生ずる苦悩の源泉を見いだすのである。」と指摘している。
 ただし、「このような変則的な過少就業の結果は、労働日の一般的な強制法的な短縮とはまったく違ったものであ(る)」。つまり、労働法に基づく強制的な時短の場合とは異なり、資本の任意の戦略としての「時短」は、それ自体搾取の手段なのである。このことは、労働時間の短いパートタイム労働の例を見れば明らかである。

日賃金や週賃金は上がっても、労働の価格は名目上は変わらないで、しかもその正常な水準よりも下がることもありえる。それは、労働の価格または一労働時間の価格が変わらないで労働日が慣習的な長さよりも延長されれば、必ず起きることである。

 給料は上がっても、労働時間が延長される場合には、やはり労働の価格は相対的に引き下がる。この場合、「(標準労働日の)限界を越えれば、労働時間は時間外(overtime)となり、一時間を度量単位として、いくらかよけいに支払われる(extra pay)。といっても、その割合は多くの場合おかしいほどわずかではあるが」。晩期資本主義は、例外を作る「エグゼンプション」の名の下に、こうした「おかしいほどわずかな」割増賃金(残業代)すら骨抜きにしようとしている。

もし一人が一・五人分とか二人分とかの仕事をするとすれば、市場にある労働力の供給は変わらなくても、労働の供給は増大する。このようにして労働者のあいだにひき起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを可能にする。しかし、このような、異常な、すなわち社会的平均水準を越える不払労働量を自由に利用する力は、やがて、資本家たち自身のあいだの競争手段になる。

 労働時間の延長によって一人の労働者の労働量が上がれば、少ない職をめぐって求職者間の競争は高まる。それによって、資本は労働の価格を引き下げ、いっそう長時間労働を強いることも可能になるが、そのようにして資本家間での競争も巻き起こす。それは表面上は安売り競争として現れるが、晩期資本主義では、こうした資本家間の破壊的な競争も激化している。

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