Ⅲ 見世物の時代
“シャムの双子”バンカー兄弟
啓蒙の18世紀に続く19世紀は、資本主義の発展とも相まって、障碍者や動物を使った反啓蒙的とも言える見世物フリーク・ショウのビジネス化が急速に進む。中でも、資本主義が隆盛化した英米である。そうした中、障碍者の中には芸人として成功を収める者も出てきた。
例えば、結合双生児チャンとエンのバンカー兄弟である。兄弟は1811年、中国系タイ人として漁師の家に生まれた。兄弟は腹部付近で正面並列に近い形で結合していたおかげで、かなりの運動能力を保持していた。
そのことに目を付けたタイ在住のスコットランド人商人によってスカウトされた兄弟は、18歳の頃から欧米でフリーク・ショウの芸人として活動を始めた。この時、「シャム(タイ)の双子」という芸名を名乗ったことから、結合双生児の不適切な俗称「シャム双生児」が誕生した。
兄弟は10年ほど活動した後、1839年以降は米国のノースカロライナ州に移住して奴隷付きのプランテーションを購入、米国市民権も取得した。芸人から奴隷農場主となった。そのうえで、バンカー姓を名乗って、二人それぞれが米国人姉妹と結婚、家庭生活を営み、それぞれ10人以上の子をもうける大家族を築いた。
幸せな大家族の運命に影が差したのは、バンカー兄弟の成長した息子たちも従軍した南北戦争である。かれらが暮らすノースカロライナは南部連合軍側であったから、戦争での敗北は一家の暮らしを直撃した。
そのため、バンカー兄弟は再び芸能活動に復帰しなければならなかったが、二番煎じは以前ほどの成功をもたらさなかったようである。とはいえ、兄弟はその尊敬される人柄と大家族のおかげで、それなりに安定した晩年を送ることができた。
しかし、チャンのほうが次第に健康を害したうえ酒に溺れるようになったあおりで、結合したエンにも影響が及ぶ中、1874年、先に病死したチャンの数時間後にエンも他界し、兄弟はほぼ同時に62年の生涯を終えたのであった。
こうして、結合双生児という重度障碍をもって生まれながら芸人として成功し、米国に移住して農場主となったバンカー兄弟は19世紀米国的な意味で社会的成功者と言えるであろう。これもまた、「アメリカン・ドリーム」の一つのあり方だったのかもしれない。
ちなみに、バンカー兄弟の子孫は兄弟の没後も今日に至るまで繁栄しており、職業軍人や学者、実業家、政治家、作曲家など多彩な分野で活躍していることも特筆すべきことである。
バンカー兄弟と同時代、あるいはそれ以降に活動したフリーク・ショウの障碍者の芸人は多く、「親指トム将軍」の芸名で活動した小人症のチャールズ・ストラットンとその妻となる同じく小人症のラヴィニア・ウォレン、小頭症のエルサルバドル人姉妹マキシモとバルトラ、20世紀に入っても英国人の結合双生児デイジーとヴァイオレットのヒルトン姉妹などがある。
フリーク・ショウは英国では一足早く取り締まりが始まるが、米国のフリーク・ショウに対しては、ブンカー兄弟没後の19世紀末から人道的な批判も出されるようになるものの、州レベルで法的な規制が始まるのはおおむね1930年代以降のことであった。