Ⅲ 見世物の時代
“エレファント・マン”ジョゼフ・メリック
フリーク・ショウの祖国と目される英国のヴィクトリア朝時代、数奇な運命をたどった一人の障碍者が現れた。20世紀の映画『エレファント・マン』の題材ともなったエレファント・マンことジョゼフ・メリックである。
メリックは1862年、英国中部のレスターで、労働者階級から衣料品店主となった下層中産階級の父のもとに生まれた。メリックが11歳の頃に他界する生母は軽度の身体障碍者であったが、働ける状態であった。
出生時には特に異常のなかったメリックは2歳が近づいた頃から顔面に腫脹が発生、手足も肥大化し、全身のバランスを失するような姿態に変形していった。当時の医学水準では彼の病気を正確に診断することはできなかったが、今日では原因不明の過誤腫症候群として位置づけられるプロテウス症候群とする説が有力化している。
いずれにせよ、当時の英国庶民階級が難病医療を受けることは至難であり、メリックも症状を放置したまま成長する。公立学校を終えると、当時の庶民階級子弟の例にならい働き始めるが、すでに人間の容貌とは思えないほどに腫脹が進行しており、生業としていた行商人の仕事も客が寄りつかず、ほぼ不可能な状態であった。
簡易宿泊所や親類の家を渡り歩いた末、彼は自らレスター市に保護申請し、救貧院に入所が認められた。救貧院とは近世の英国に見られた就労困難者を収容する保護施設であり、対象者は多種多様であったが、当時は就労機会のほとんどなかった障碍者が多く、事実上の障碍者施設であった。
だが、その劣悪極まる居住・衛生環境に耐えられなくなったメリックは著名なフリーク・ショウの興行師に自らコンタクトを取り、その紹介で別の巡回興行師のマネージメントの下、フリーク・ショウの芸人となったのである。腫脹で異常肥大したメリックの容姿から、「半人半象」を意味するエレファント・マンの芸名はこの時に誕生した。
しかし、芸人エレファント・マンの生活も長くは続かなかった。英国では数百年の長い歴史を持つフリーク・ショウであったが、時代は19世紀末、人道主義的思潮もあって、フリーク・ショウを取り締まる動きが出てきたのだ。そのあおりで、メリックの所属するショウにも閉鎖命令が下され、彼はオーストリア人興行師に売られたが、欧州でも振るわず、解雇されてしまう。
こうして失業者として英国に戻ったメリックは、芸能活動中に彼を診察したことがあり、数少ない友人ともなる外科医フレデリック・トレヴェスの計らいでロンドン病院に入院することができた。以後、ここが彼の終の棲家となる。
無一文の彼の入院費用をまかなうための寄付金を募るロンドン病院理事長の新聞投稿がきっかけで、英国上流階級からの支援が得られるようになった。多くの貴族や著名人の面会者が彼のもとを訪問した記録が残るが、その中には時のエドワード王太子妃アレクサンドラ(後のエドワード7世妃)すらいた。
実際、この時期の彼は上流階級の仲間入りを果たしたかのように、病院を住処としつつも、観劇や田園での避暑なども楽しんている。上流階級による慈善活動が社会慣習化し始めた時代の風潮もメリックに味方していた。
メリックの生涯で、この頃が最も幸せな時期であったろうが、これも長くは続かなかった。1890年4月、彼が病室で死亡しているのを回診の医師が発見した。検視の結果、腫脹で肥大化した頭部を抱えるようにして就寝する習慣ゆえの頚椎脱臼による事故死と判定された。
こうしてあっけなく終わったメリックの27年の短い生涯は、不具者の世界歴史が見世物の時代から保護の時代へと大きく動く転換期に当たっていた。彼の短くも数奇な人生は、それ自体が一個の歴史である。