Ⅳ 保護の時代
優生学の形成
障碍者を保護する時代の到来は、その反面で、管理統制を越えて障碍者を淘汰絶滅する思想を生み出した。この相反する二つの思潮は相即不離の関係にあって、保護の時代と絶滅の時代とは重なっている。すなわち、保護に値する障碍者と値しない障碍者の選別が行なわれるのである。
こうした選別政策の理論的支柱となったのが、19世紀末に現れた優生学思想である。これは、英国の数学・統計学者フランシス・ゴルトンによって創始・提唱された疑似科学的な「理論」である。ゴルトンは進化論の祖チャールズ・ダーウィンの従弟に当たり、その理論の影響を受けていた。
しかし、彼は従兄とは異なり、生物学を系統的に研究したことはなく、ダーウィンの理論を自己流に解釈して優生思想を創案した。その理論は極めて素朴と言うべきもので、それは彼が優生思想を確立する以前に出した主著の一つ『遺伝的天才』の中で、すでに先行して以下のように記述されている。
人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであるのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制約にもかかわらず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、数世代にわたって賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出し得ることは疑いない。
裏を返せば、障碍という能力制限的特質も遺伝によってもたらされるものであるから、そうした負の遺伝要素についてはこれを淘汰することで人類社会は改善されていくということになり、実際、ゴルトンは後にこうした意味で、優れた遺伝子を保存し、劣った遺伝子を淘汰する優生思想へと到達したのである。彼によれば、弱者保護政策は弱者を人類社会から廃絶すべきはずの自然選択と齟齬を来たすのである。
ここには、同時代に高まりを見せていた人道思想や社会主義思想への反対という保守的な政治思潮との共振を読み取ることもできる。ただ、科学者であったゴルトンは、それを社会思想ではなく、当時を風靡していた進化論と遺伝学を組み合わせた科学理論の体裁を取って主張したところに利点があった。
実際のところ、ゴルトンの自然選択説はダーウィン理論のあまりに形式的・皮相的な二次加工であって、同時代的にも批判者はあったが、その単純さゆえに科学的素人にもわかりやす過ぎるという危険性を内包していた。
そのためか、ゴルトン自身は弱者淘汰のための政策的手段、中でも絶滅のような強権的手段は何ら提示しなかったにもかかわらず、優生学は科学的究明よりも政策的手段の開発へと突き進んでいくのである。ゴルトンは1911年に世を去ったが、その後の優生学は彼の想定をもはるかに越えて政治思想化していった。