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不具者の世界歴史(連載第22回)

2017-05-30 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

ナチスの「不適格者」絶滅作戦
 19世紀末の英国で形成された優生学がナチスの絶滅作戦にまで飛躍するには、一定の時間的経過が必要だったが、その間、最初に優生学が政策化されたのは米国であった。米国ではゴルトンが存命していた19世紀末には早くも優生学の政策化が推進されている。
 手始めに、知的障碍者・精神障碍者の結婚を制限する婚姻制限政策が州レベルで立法化された。同時に、障碍者への強制不妊手術を正当化する断種法の制定も相次いだ。もっとも、遅れて欧州や日本にも広がる断種政策については次回にまわす。
 米国優生学の特徴は、人種差別と結びつけられたことであった。米国有数の優生学者であったチャールズ・ダベンポートが設立した優生記録所が米国における優生学研究の拠点となり、彼の著書・論文が多大な権威を持った。
 「人種改良学」という彼の著書名にも採用された概念が、ダベンポート優生学をまさしく象徴している。これは、公民権改革前で人種差別が常態だった米国ではたちまち「通説」となった。20世紀の二つの大戦間期の米国では、ダベンポート理論に沿って、移民制限や人種隔離のような人種差別的政策が連邦レベルでも追求されたのである。
 この理論がドイツに輸入され、ダベンポートもコネクションを持っていたナチスの政策に強い影響を及ぼしたと考えられている。実際、ナチスのアーリア人種優越政策は人種改良学的な観点に立脚していた。ホロコーストは、その極限に行き着く政策であった。ただ、ここではナチス大虐殺のもう一本の柱であった障碍者絶滅作戦に焦点を当てたい。優生学との関わりでは、こちらのほうが「本筋」だったからである。
 実は、ドイツでもナチスが政権を掌握する以前から優生学が風靡し、すでに障碍者への断種や絶滅を主張する医学者らの主張が現れていた。一方で、1918年ドイツ革命後のワイマール共和体制はリベラルで社会民主主義的な観点から障碍者福祉・教育の充実を指向したが、「大きな政府」による財政難という難題にも直面していた。
 そうしたワイマール共和体制の限界を突く形で登場したナチスが1939年に開始した障碍者絶滅作戦(T4作戦)は、改めて優生政策を極大化させ、「小さな政府」を目指す最終解決策でもあった。この政策には医師その他の専門家も参画し、極めて体系化されていたが、根拠法律を持たない社会実験的な性格の秘密作戦であった。
 絶滅対象は精神障碍者・知的障碍者が主であるが、より広い「不適格者」の概念の下、反社会分子や浮浪者、同性愛者なども含む雑多なものであった。手段は「安楽死」と呼ばれたが、その実態はホロコーストと同様のガス殺が主であり、「安楽死」はカムフラージュの標榜に過ぎなかった。
 他方、視覚障碍者のように障碍を持ちながらも労働可能な者は対象から除外されたばかりか優遇され、ナチスを支持した障碍者団体も少なくなかったのである。また、ナチス政権のプロパガンダ政策で絶大な影響力を持った宣伝大臣ゲッベルスは、先天的に左右の足の長さが異なる軽度の身体障碍者でもあった。
 「民族社会主義労働者党」を標榜し、右翼労働者政党でもあったナチスの優生政策では「労働可能性」が指標であり、障碍者全般ではなく、労働できない障碍者等が保護に値しない不適格者とみなされたのであり、保護と絶滅は両立していたのである。 
 T4作戦は41年までの二年足らずで公式には終了したが、その間の犠牲者だけでも7万人余りと推計されている。ただ、公式に作戦が中止された後も現場レベルでの非公式の絶滅が収容所や病院単位で継続されたため、実際の犠牲者数はさらに多いとも指摘されている。

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