第二章 奴隷制廃止への長い歴史
英国の奴隷制廃止立法
英国議会における奴隷制廃止立法の動きは、ウィリアム・ウィルバーフォース議員を中心に18世紀末から開始されるが、当初は困難を極めた。奴隷所有者も多く参加していた当時の英国議会では、言わば「奴隷既得権」の壁は厚かったのである。
1791年における最初の廃止法案は大差で否決された。ウィルバーフォースはその後も粘り強く活動を続けるも、18世紀中に実現することはなかった。転機は19世紀に入ってからである。まずは奴隷制そのものではなく、奴隷貿易の禁止に重点を置く戦術にあえて後退させたことが突破口となり、1807年に奴隷貿易廃止法が成立する。
この法律により、英帝国全域での奴隷貿易は違法化されたとはいえ、妥協策であるため、違反への罰則は軽く、闇の奴隷貿易は横行し続けるなど、「ザル法」の嫌いは否めなかった。それでも、1808年以降、王室管理地となったシエラレオーネは奴隷貿易取締りの拠点となり、取締り艦隊の摘発により、多くの奴隷が解放されるなど、相応の効果も上げたことは事実である。
しかし、これは始まりに過ぎず、ウィルバーフォースら奴隷制度廃止派の最終目標は当然ながら奴隷制度そのものの廃止にあった。運動を強化すべく、1823年には従前の奴隷制廃止促進協会が反奴隷制協会に再編された。
その結果、1824年には07年法の罰則強化が実現し、1833年、ついに奴隷制廃止法が成立した。このような急展開の背景には、1830年、長く野党だった改革主義的なホイッグ党が政権を獲得したことが大きく関わっていたと考えられる。
もっとも、この33年法は当初、「年季奉公」という形態の抜け道を残していたほか、東インド会社所有領を適用除外としていたが、これらの抜け道も1843年までには順次撤廃された。
ただ、妥協策として旧奴隷主に対する補償を伴う有償廃止の方式が採られた結果、英国政府は総額で2000万ポンドの補償金を支払うことになった。その一方で、解放奴隷たちは全く補償されることがなかったのである。
こうした非対称な解決法の道義的・政策的な是非はともかく、議会での討議を通じ、奴隷制廃止を実現させた英国の先例は歴史上も画期的だったと評してよいであろう。以後、英国は39年に反奴隷制協会から英国及び海外反奴隷制協会に再編された国際的な奴隷制廃止運動の拠点となる。