第二章 奴隷制廃止への長い歴史
ラテンアメリカ独立と奴隷制廃止
スペイン・ポルトガルの支配下にあったラテンアメリカでは両国が持ち込んだ奴隷制度が全般に存在していたが、17世紀、メキシコの独立を先駆的に構想したアイルランド出身の革命家にして奴隷制廃止論者でもあったウィリアム・ランポートは革命蜂起に失敗し、異端審問により処刑された。
その後、18世紀のフランス革命とその渦中でのハイチの奴隷反乱を契機とするハイチ独立は、当時、主としてスペインの支配下にあったラテンアメリカ諸国にも続々とドミノ的な独立革命の機運をもたらした。
そうした独立革命の中で、南米では「子宮の自由」という標語のもとに、奴隷の子として出生した者を奴隷身分から解放する制度が普及していった。ただし、ラテンアメリカでは奴隷主である大土地所有者層の抵抗も根強く、その時期やプロセスは国によって相当に異なっていた。
「子宮の自由」を最初に実行したのは1811年、独立前のチリであったが、チリでの完全な奴隷制廃止は独立後の1823年であった。チリに続いて、アルゼンチンでも独立前の1813年に「子宮の自由法」が成立したが、完全な奴隷制廃止は1853年の憲法制定まで持ち越された。
南米独立運動の英雄シモン・ボリバルも奴隷制廃止論者であり、彼が建設に尽力した大コロンビア共和国(今日のコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、パナマを包含)では、1819年以降、段階的な奴隷制廃止が実現したが、奴隷主の大土地所有者層の抵抗もあり、完全な実現は大共和国解体後の1850年代まで持ち越された。
中米では中央アメリカ連邦共和国(今日のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカを包含)が1824年に、メキシコが1829年に奴隷制を廃止している。
ただし、当時メキシコ領だったテキサスでは、奴隷制廃止に不満を募らせたアメリカ人入植者らが決起し、1836年にテキサス共和国を分離独立させると奴隷制が復活し、テキサスはアメリカ内戦前の45年に米国に合併され、南部奴隷州の一つとなった。
以上に対して、スペイン統治が長く続いたプエルトリコでは1873年、キューバでは独立前の1886年、1822年に独自の帝国としてポルトガルから独立したブラジルでは全アメリカ大陸において最後となる帝政最末1888年のいわゆる「黄金法」をもって奴隷制度が廃止されるに至ったのである。