第二章 奴隷制廃止への長い歴史
ハイチ独立―奴隷の革命
19世紀初頭以来の歴史を持つカリブ海の独立国家ハイチは、イスパニョラ島西部の旧フランス植民地サン‐ドマングが独立して興された国であるが、独立前のサン‐ドマングはサトウキビやコーヒーを主産とするフランスの代表的なプランテーション植民地であり、決して広大ではなかったけれども、最も利潤を上げる海外植民地でもった。
そのプランテーション労働力として投入されていたのが、アフリカ西海岸から強制連行された黒人奴隷たちだった。ただ、前回も述べたように、フランス植民地の黒人奴隷制は比較的寛大で、個別的な解放奴隷も少なくなく、また白人と混血した自由人ムラートも相当数に上っていた。
そうした状況下で、自由・人権を掲げたフランス革命が勃発、これに触発される形で、1791年、ハイチの黒人奴隷とムラートが奴隷廃止を求めて蜂起した。その中心に立ったのは、解放奴隷出身のトゥーサン・ルーヴェルチュールであった。
彼はフランス革命に対抗する反革命派のイギリス・スペインの軍を撃退しつつ、1801年にはイスパニョラ島全島を制圧し、奴隷制を廃止したうえ、自治憲法を制定、自らイスパニョラ島総督に就任して事実上の独立国家を樹立した。
しかし、これは正式なハイチの独立ではまだなかった。フランス革命政府を乗っ取ったナポレオンが02年には強力な軍を派遣して反撃、ルーヴェルチュールを捕らえて反乱を鎮圧したからである。この苦境を打開したのが、ルーヴェルチュール麾下の有能な部将であったジャン‐ジャック・デサリーヌである。
彼は03年にはフランス軍を撃退し、翌年04年に正式にハイチ独立を宣言したのである。これは奴隷による独立革命という歴史上も稀有な出来事であり、かつ当時まだ軒並み西洋列強の植民地下にあったラテンアメリカ初の独立国家の誕生という記念すべき出来事でもあった。
ただ、権力欲の強いデサリーヌは共和制に飽き足らず、敵のナポレオンにならって皇帝に即位、ジャック1世となった。ここから、フランス革命同様の反動化が始まる。この帝政ハイチでは、奴隷制は廃止されたものの、産業基盤のプランテーションを維持するため、解放された奴隷たちの多くはプランテーション労働者に転向させられたのである。
デサリーヌの統治は民主的とは言えず、白人への憎悪から白人の大量処刑を断行する一方、国の行政・軍事機構を整備するために、知識層のムラートを登用したことから、ムラートの勢力が台頭し、やがてかれらが支配階級としてハイチの政治経済を独占する基礎が作られた。
デサリーヌへの不満はすぐに高まり、06年、彼は反対勢力の手により暗殺された。その後のハイチは、政治的に共和制と君主制(帝政)の間を揺れ動き、経済的には奴隷制廃止に対するフランスへの多額の賠償金の支払いで経済が崩壊し、一時は奴隷制を復活させるなど、「解放奴隷国家」という特異な誕生経緯ゆえの苦境を何世紀も経験することになるのであった。