第二章 奴隷制廃止への長い歴史
アメリカの奴隷制廃止運動
アメリカでは、最初の植民地形成当時から黒人奴隷制が存在しており、アメリカの形成は奴隷制と不可分には語れない。初代大統領ジョージ・ワシントンをはじめ、アメリカ建国の父たちの多くも奴隷所有者であったし、建国初期の帰化法では帰化条件を「自由白人」に限定していた。
一方、奴隷制廃止運動は建国に先立って立ち上げられていた。その先陣を切ったのがクエーカー教徒であったことは、英国の場合と同様である。最初の奴隷制廃止運動体は、1775年にペンシルベニア植民地のフィラデルフィアで結成された「不法拘束下自由黒人救援協会」であった。
この運動は独立戦争中のやむを得ざる中断を経て、1785年、建国初期の進歩的知識人にして、建国の父の一人でもあるベンジャミン・フランクリン―彼も奴隷所有者であったが、改心していた―を会長に迎えて再開された。
これに前後して、進歩的な北部では州単位での段階的な奴隷制廃止が進行していくが、全面的な廃止に踏み切った最初の州は、1783年のペンシルベニアであった。世紀をまたいで、1804年までには北部の全州で奴隷制は廃止された。
とはいえ、この「廃止」は廃止法制定前の奴隷に関しては一定年齢に達するまで解放を免除するなど、奴隷主に有利な条件が付されており、完全な奴隷解放は19世紀半ば過ぎのリンカーン大統領による奴隷解放宣言とその後の憲法修正第13条を待つ必要があった。
さらに、州の内政自治権を最大限尊重する厳格な連邦制を採用する合衆国憲法上、連邦は州に奴隷制廃止を強制することができず、1820年には中西部の連邦未編入領域では奴隷制を認めないという妥協(ミズーリ妥協)が連邦議会によって図られた。
しかし、これはあくまでも新設される州への規制(奴隷制拡大防止策)にとどまり、国内での州際奴隷取引を禁じていなかったこともあって、主産業である農業分野で奴隷労働力に依存する南部諸州では奴隷制廃止は一向に進まなかった。
そうした中、1831年、奴隷制護持の拠点とも言えるバージニア州で黒人奴隷ナット・ターナーに率いられた奴隷反乱が発生した。ターナーは読み書きができたが、日食を徴とする半ば神がかった信条から、同志を募って子どもを含む白人の男女60人近くを殺害するというテロ行動に出たのだった。
この反乱は州当局により短時間で鎮圧され、ターナーは残酷に処刑された。同時に反乱参加者50人以上が処刑され、反乱部外者を含む200人近くの黒人が怒れる白人暴徒によって報復的に殺戮される事態が続いた。
この事件の後、1830年代には、社会運動家ウィリアム・ロイド・ガリソンを中心に反奴隷制協会が結成され、より理性的・非暴力的なやり方で奴隷の即時解放と全米での奴隷制廃止が目指され、奴隷救援組織が秘密のルートを中継して奴隷の逃亡を支援する運動が開始される。いわゆる「地下鉄道」である。
この「地下鉄道」で案内役となる「車掌」として活躍した黒人女性にハリエット・タブマンがいる。自身逃亡奴隷として「地下鉄道」で救済された彼女は、90歳を越える生涯を奴隷制廃止/差別撤廃運動に捧げた黒人女性運動家の先駆者として女性史上も傑出した存在である。
これに対し、南部では1850年、対抗的に逃亡奴隷の返還を義務づける逃亡奴隷法を連邦議会に制定させることに成功したが、奴隷の逃亡先となる北部の廃止州では人身保護法を制定して逃亡奴隷を保護するようになった。こうして、アメリカ合衆国は連邦制構造の中で、奴隷制をめぐり、北部と南部に亀裂が生じていく。