第1部 エスペランテート総論
(1)世界語の意義①
世界語の意義
世界語とはなにか。本連載では「世界語」という用語が頻出するが、「世界語」とはなにかということをはじめにはっきりさせておく必要がある。ここに「世界語」とは、もっともせまい意味においてはエスペラント語そのもののことをさす。実際、日本ではじめてのエスペラント語入門書である二葉亭四迷の著作タイトルは『世界語』であったし、今日でももっとも強力なエスペラント語スポンサーの一つである中国でもエスペラント語を「世界語」とよんでいる。
これに対し、もっともひろい意味ではおよそ世界中で普遍的に通用する言語という趣旨で「世界語」という用語を使用することもできるが、この意味では、現時点においてもっとも世界に普及している英語も「世界語」にふくまれることになる。
しかし、本連載はエスペラント語を母体としながらも、エスペラント語から独立したあらたな「世界語」たるエスペランテートを創出することに主眼がおかれるのであるから、英語もふくめたひろい意味で「世界語」という語を使用することは混乱のもととなる。よって、このような広義の「世界語」も除外される。
結局、本連載でいう「世界語」とは、世界中で通用しうる共通語として計画的に創案された言語という中間的な意味でもちいられることになる。この意味で「世界語」というときは、同種の目的から創案された諸言語はみな「世界語」にふくまれる一方で、英語のように慣習的に世界で通用するにすぎない言語は「世界語」にはふくまれないことになる。
ちなみに、この意味での「世界語」はエスペラント語をふくめ、すべて人工的な計画言語であることになる。これに対し、英語のように世界中で実際上通用するいわゆる自然言語を「事実上の世界語」とよぶこともでき、本連載でもしばしばこのように表現することがある。
ところで、「世界語」が公式的に公用語と指定されたばあいは「世界公用語」とよぶのがより正確であるが、現時点でそうした意味における「世界公用語」は存在しない。エスぺランテートが将来そうした地位をもつまでは「共通世界語」とよぶことがふさわしいであろう。
世界語の必要性
ところで、以上のような意味での「世界語」はそもそも必要なのだろうか。エスペラント語を「世界語」とみなしてきた伝統的なエスペランティストにとってこのといのこたえは問題なくイエスであるが、他のひとびとにとって、このといは世界に数千ともいわれる民族言語が存在する人類の言語的分裂状況を通訳・翻訳という営為によって克服することができるかどうかという問題にかかわっている。
この点からいえば、各民族言語はその言語を共有する民族集団がながい年月をかけて独自に熟成してきた固有の精神文化である。したがって、ある民族言語はその言語を解しない他民族にとってはただの音声ないしは記号にすぎない。
そうした民族言語の持つ精神文化性は通訳・翻訳の本質的な不能性を結果する。すなわち最良の通訳・翻訳といえども、それはある民族言語を別の民族言語のもっとも近似的な表現で「解釈」しているにすぎず、本質的に逐語訳ができているわけではないということである。
その点、旧約聖書にみえる「バベルの塔」の神話は示唆的である。それによると、かつて人類はすべておなじ言語をはなしていたが、あるときひとびとが天までとどく塔をつくって一つにまとまろうとしたため、主がくだって言語をみだし、たがいにあいての言語を理解できないようにしたという。
この神話は実現不能な計画のたとえとして引用されるが、一方で人類の言語が相互に理解不能なほど分岐したことの由来譚としても解釈できる。主(かみ)がなぜ人類が一つにまとまることを忌避し、言語の統一をみだしたのかの解釈は種々ありうるが、世界語を創案するこころみはかみの意志にふたたび反するおこないだということになりそうである。
たしかに、今日の人類は世界に拡散し、それぞれの精神文化の所産である多数の言語をもつが、情報通信技術の発展により、遠隔地のひとびと同士のコミュニケーションの可能性と必要性がたかまっている。コミュニケーション上の誤解はしばしば紛争のもとともなるから、世界語は紛争の防止にも寄与するだろう。
より積極的に、地球環境を保全して繁栄を持続させるべく、人類の統一がふたたび要請される時代でもあり、その際の共通的コミュニケーション・ツールとして、世界語の意義はおおきい。いいかえれば、実現不能な「バベルの塔」をたてることなく、世界中に拡散した多言語状況を維持したまま、共通の言語を共有する共同体を結成するのである。
その点、人工的に計画・創案された世界語は特定民族の精神文化に依拠していないため、世界中のだれもが容易に習得し、誤解なくコミュニケートすることを可能にするのである。そうした利点からしても、世界語の必要性は十分にみとめられるといえる。