四十 中国文化大革命
(4)文化大革命の転回
文革は1970年代に入ると、その初発・前半期には見られた革命的な性質を失い、まさに中共内の権力闘争へと転回していくことになるが、その予兆は早くから見えていた。
文革前半期を特徴づけた紅衛兵運動は毛沢東から支持を受けて増長し、粗暴さを増していたところ、当初こうした紅衛兵運動を自身の権力闘争の下支えとして利用できると考えていたと見られる毛も、運動が過激化し、ついには一部の紅衛兵らが毛の中農出自を槍玉に上げるに至ると、これを危険視するようになった。
こうした紅衛兵運動の過激化を放置しておけば、その矛先が毛自身と文革指導部にすら向けられ、まさしく民衆革命となりかねなかったため、1967年に入ると、文革指導部は人民解放軍を動員して紅衛兵の掃討に動いた。
その結果、68年までには紅衛兵運動は沈静化し、同年以降は、知識青年層の再教育という名目で、知識青年上山下郷運動と称する学生の強制的な地方農村送致・徴農制が開始されたことにより、「造反有理」から青年層を統制・馴致する政策に転換した。
一方、権力闘争という観点から見ると、1968年10月の党中央委員会において、文革が標的とした実権派の指導者と目された劉少奇国家主席の党からの除名が決定されたことにより、ひとまず決着がついていた。
この後、劉少奇に代わって文革参謀役の林彪が大きく台頭し、69年には正式に毛の後継者として認知されるに至る。しかし、これで文革完了とはならず、この後は文革派内部での権力闘争に転化されていく。
とりわけ、ナンバー2に浮上した林彪に対する毛の疑心が増幅したことが、新たな権力闘争の火種であった。発端は、劉少奇の失権後に空席となっていた憲法上の元首に相当する国家主席職の廃止を毛が提案したのに対し、林がこれに異議を唱えたことであった。
この政体論争は表面のことで、その実態は老境に入り疑心暗鬼になっていた毛が林の政治的な野心を必要以上に疑ったことにあったのであるが、これはすぐに権力闘争に発展する。林は機先を制するべくクーデター計画を推進し、1971年9月には毛暗殺を企てたが、未然に発覚、林は家族とともに空軍機でソ連へ逃亡する途上、モンゴル領内で墜落死した。
状況的には謀略の可能性も想定されるところであるが、パイロットの操縦ミスが墜落原因とされている。いずれにせよ、文革参謀役・林彪の墜落死(林彪事件)によって、文革は新たな段階を迎えた。
この時期になると、前回見た革命委員会の制度も再生された党組織に吸収される形で形骸化してきており、革命性を喪失していた。一方、女優出自で毛夫人の江青を含めたいわゆる文革四人組は、毛夫人として特権的な地位を持った江を除き、他の三人(王洪文・張春橋・姚文元)は従来の党組織内でそれぞれ昇進を遂げていた。
こうして、文革後半期は革命的性質を喪失し、文革四人組を中心とした新たな党指導部による権力政治へと転回していくのである。この後半期文革体制は1976年の毛の死去まで続き、毛の死去を待って、華国鋒を中心とする新たな党指導部が四人組の検挙に踏み切った時に終焉した。
翌1977年には、文革渦中に実権派として排除されていた鄧小平が復権、その年の党大会で文革の終結が宣言されるが、この時は依然党内に残存する文革派に配慮して、文革の「勝利」というレトリックを必要とした。そのため、真の意味で文革が終了したのは、まさしく実権を握った鄧小平の下で1978年以降、改革開放路線が始動した時であった。
今日まで続くこの新路線は、まさに毛らが文革の標的とした「走資派」による修正主義の道であったが、皮肉にも、この路線こそ中国共産党が本家ソ連共産党より長期的に成功する要因となる。