四十二 タイ民主化革命
(4)民主化の挫折と半民主化
タノーム政権が電撃的な民主化革命により瓦解しても、この革命は統一的な革命集団による革命ではなく、自然発生的に高揚した抗議デモに端を発しているため、受け皿となる革命政権が形成されることはなかった。
革命後、最初の首相には非政治家であるタマサート大学総長サンヤー・タンマサックが任命されたが、これは革命の拠点がまさにタマサート大学にあり、同大学生が中心を担った「学生革命」の特徴をよく表す流れである。
サンヤー首相は最高裁判所長官を務めたこともある法律家であり、懸案である民主的な新憲法の制定を指導することが主な課題であった。その結果、1974年に新憲法が制定されるが、国王の権限を強化したい王権主義者の介入によって王権が強化され、内閣の半分を非民選の文武官が占めることが可能とされるなど、立憲君主制はむしろ後退した。
暫定政権の性格の強かったサンヤー政権は1975年に退陣し、その後、与党として民主党が台頭してきた。民主党は1932年立憲革命を担った人民団文官派の流れを汲む政党であり、主として中産階級を支持基盤とするリベラル保守政党である。
しかし、民主党政権は不安定で、セーニー・プラーモートとその弟で、民主党から分離して社会行動党を結党したククリット・プラーモートの間で政権をたらい回しにする状況が1976年まで続く。
この間、近隣では1975年のインドシナ三国同時革命(後述)により、カンボジア、ベトナム、ラオスで社会主義政権が一斉に誕生するとともに、タイ共産党も勢力を増し、山岳部少数民族と結びつく形でゲリラ戦争を拡大するなど、不穏な内外情勢が重なった。
経済的な面でも、民主党政権は石油ショックによる景気低迷に対処できない中、76年に入ると、再び学生運動が刺激され、タイ全国学生センター(NSCT)は民主主義擁護や当時タイ市場を席捲していた日本製品不買などを掲げて、抗議活動を繰り広げた。
一方で、左派の伸長を警戒する軍部勢力は右派自警団運動に肩入れし、左派との対立を扇動していた。そうした中、76年10月、73年革命後に亡命していたタノーム元首相が帰国したことに抗議する学生集団と右派自警団の衝突に警察が介入し、多数の死者を出した。
事件の日付10月6日から「血の水曜日事件」と呼ばれる新たな流血事態は、73年の「血の日曜日事件」とは反対に、軍のクーデターを招いた。その結果、民主党政権は倒れ、保守強硬派の元最高裁判事ターニン・クライウィチエンが首相に任命される。
ターニン政権は民主化を否定し、集会・言論統制や左派の弾圧を強化したため、73年民主化革命は大きく挫折することとなった。この後、77年の再クーデターによる軍事政権をまたいで、80年に就任したプレーム・ティンスーラーノン首相は非民選の軍人ながら、中和された半民主的な安定政権を88年まで維持した。
その後、1990年代以降になって政党政治が定着するも安定せず、重要な局面で軍部がクーデター介入するタイ政治の力学は今日まで不変であり、73年民主化革命後も民主政治の安定的な定着は実現していない。