四十二 タイ民主化革命
(2)反共ファシズム体制の破綻
前回も見たように、タイでは、立憲革命の後、人民団武官派の流れを汲む職業軍人の支配体制が確立され、軍部が大きな政治セクターとして台頭することになった。この傾向は、戦前から戦後にかけてタイ政治を主導したピブーンの失権によっても変わることはなかった。
むしろ、少なくとも外形上は立憲革命で樹立された立憲君主制を擁護していたピブーンに対し、彼を追放した後継者らは、立憲君主制の枠を超えて独裁政治を展開しようとした。その嚆矢がまさにピブーンをクーデターで追放したサリットであったが、サリット亡き後を継いだタノームも同様である。
サリットが実権を掌握した1958年からタノームが1973年民主化革命で追放されるまでの14年間は一続きの軍事独裁統治の一時代と言ってもよいが、この時代のイデオロギー的な軸は反共主義にあった。
その点、タイでも1930年結党の共産党が活動していたが、長くマイナー政党であったところ、1952年に当時のピブーン政権は共産主義者取締りの根拠となる反共法を制定し、広汎な定義規定によって、反体制派を包括的に検挙できる弾圧法として整備していた。
しかし、このような禁圧はかえってタイ共産党をゲリラ活動に走らせることとなり、1960年代を通じてタイ共産党は地方農村部を拠点に勢力を伸ばし、65年以降、反体制武装勢力として人民戦争を挑むようになる。
外部環境的にも冷戦の本格的な展開が見られた時期であり、タイの軍部勢力は終始、親西側の立ち位置を維持した。特にタノーム政権期、周辺のインドシナ半島ではベトナム戦争(及びカンボジア・ラオスにも及ぶインドシナ包括戦争)が同時進行しており、これにタノーム政権が全面的に反共・米国側で協力したことも、政権長期化の外的要因となった。
そうした中、タノーム首相は1971年、大きな一歩を踏み出した。この年、首相は事実上の自己クーデターを発動して憲法を停止し、議会を強制解散、政党活動も禁止するという強権行使に出た。そのうえで、翌年には首相に絶対権力を付与する暫定憲法を公布した。
これはナチスの全権委任法にも似た独裁憲法であり、ここに至って、体制はファシズムの性格を濃厚にした。この暫定憲法では国王の専制こそ認めないが、政府の専制を許容しており、1932年立憲革命の精神も没却されたに等しかった。
ナチス体制をはじめ、ファシズム体制の長期的な成功要因としては経済政策の成功が大きな要素となるが、タノーム政権にはその要素が欠けていた。1970年代には、いっときブームとなったベトナム戦争特需が終わり、輸入超過による財政赤字の拡大に、基軸農産品である米の国際価格の下落が重なり、不況に陥った。
タノーム首相による全権委任体制に入った72年になっても状況は改善しないどころか、インフレーションが亢進し、食糧価格の高騰により労働者階級の暮らしが逼迫した。このことは当然にも労働運動を刺激し、ストライキを頻発させることになる。
これに対し、タノーム政権が愛国的なナショナリズムを煽るため、外資規制や外国人の職業制限などの排他的政策を打ち出し、海外資本やタイ経済の大きな担い手でもあった華僑系資本の規制に乗り出したことは、逆効果となった。
こうして、タノームの反共ファシズム体制は体制は政治面では体制の強化を導きながら、経済面ではマイナスとなり、下部構造的には破綻に向かっていた。このことは、翻って民主化運動の高揚を刺激し、上部構造の動揺にも作用していくのであった。