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近代革命の社会力学(連載第300回)

2021-09-23 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(3)ソマリア革命
 東アフリカのいわゆる「アフリカの角」の一角を占めるソマリアもアフリカ分割の例外ではなく、戦前戦後にかけて、北部はイギリス領、南部はサハラ以南で唯一のイタリア領として分割されていた。そのため、1960年の独立に際しては、いったん南北分離独立となるが、直後に改めてソマリア共和国として統合されるという複雑な経緯をたどった。
 ソマリア社会は他のアフリカ諸国とはやや異なり、同一のソマリ族内部がいくつもの氏族集団に分岐し、氏族ごとに結束・競合する氏族主義の社会編制を持っていた。一方で、ケニアやエチオピアといった周辺諸国にもまたがって散在するソマリ族居住地域全体の統一を目指す汎ソマリ主義という民族統一思想も独立運動の中で興隆しており、そうした氏族主義と汎ソマリ主義という相矛盾した命題が革命の動因を形成していく。
 その点、独立直後から1969年の革命までの間は、独立運動に寄与した汎ソマリ主義政党・ソマリ青年同盟(SYL)が優勢であった。とはいえ、旧イタリア領の南部系の氏族が優遇されたため、独立直後の1961年には北部氏族系の将校の反乱が勃発し、改めて南北分離の主張も現れた。
 これに対し、当時のアデン・アブドラ・ウスマン初代大統領は強固な汎ソマリ主義によって社会の統合を図ったため、近隣諸国との緊張関係を高めた。そのことが1967年大統領選挙(議会による選出)で、同じSYL党員ながら汎ソマリ主義に消極的なアブディラシッド・アリー・シェルマルケの当選を導いた。
 当時のアフリカ諸国で平和的な選挙による政権交代は稀有であり、その限りではソマリアは安定した民主国に見えた。しかし、69年、シェルマルケは護衛官の手により暗殺されてしまう。この事件は護衛官による個人的犯行とされたが、その直後に間髪を入れず大規模な軍事クーデターが起きたことから、背後関係も疑われ、深層は不明である。
 1969年クーデターはモハメド・シアド・バーレ陸軍司令官が指揮する全軍規模で決行されたが、大統領暗殺後の混乱を収拾する暫定的な目的のものではなく、より全般的な社会変革に及ぶ革命を志向していることが間もなく明らかとなる。クーデターの経緯やその後の展開を見ると、これは軍主導での社会主義革命であった。
 クーデターの核心グループは、1960年代のSYL政権がソ連に接近していた関係上、ソ連留学経験を持ち、留学中マルクス‐レーニン主義に感化されたと見られる佐官級以下の中堅将校であった。バーレ将軍は植民地時代のイタリア留学経験しかなかったが、軍幹部としてソ連軍の訓練将校と接する中で社会主義に感化されていたかもしれないものの、当初は部下の将校らに担ぎ出された形であったと見られる。
 軍部はクーデター後に最高革命評議会を設置し、国名もソマリア民主共和国に変更、科学的社会主義に基づく氏族主義の克服と近代化の推進を課題とした。そして、1976年には、軍政からの転換として、バーレ大統領を党議長とするソマリ革命社会主義者党(SRSP)を結党し、ソ連流の一党支配体制を樹立した。
 SRSPはソ連共産党を模倣した組織構造を持っていたが、マルクス‐レーニン主義とイスラームの融合というイスラーム圏ならではの野心的なイデオロギーを標榜した。しかし、そのような水と油の化合は成功せず、イスラーム主義は抑圧されることになる。
 また結党も最高革命評議会の内紛を粛清によって解決したバーレが主導したため、SRSP幹部の大半をバーレとその腹心の軍人が占め、形式上は民政へ移行しても、実態は軍事政権と変わらないものであったことも、革命の遂行には障害となったであろう。 
 SRSP体制は、氏族主義の克服をマルクス‐レーニン主義以上に汎ソマリ主義に求めた。その実践として、1977年には隣国エチオピアのソマリ族居住地域であるオガデン地方の分離独立運動を支援する口実でエチオピアに侵攻し、戦争に発展した。
 この当時、エチオピアも後述の通り、マルクス‐レーニン主義に基づく社会主義国家となっていたところ、明らかにソマリア側の侵略に端を発したこの戦争で、ソ連及び東側陣営がエチオピア側支援に回ったために敗北を喫したことに憤慨したバーレ政権は東側から離反し、一転西側に接近、アメリカからの経済・軍事援助すら取り付けたのである。
 このオガデン戦争での敗北は、革命体制を変質させる決定的な契機となった。権力に執着するバーレ大統領は次第に個人崇拝的独裁に進み、恐怖政治の度を強めた。それに伴い、氏族主義が復活し、バーレ自身の所属氏族やその同盟氏族が優遇される体制となり、マルクス‐レーニン主義は形骸と化していった。
 秘密警察機関による弾圧・粛清と腐敗した氏族主義の縁故政治を通じて辛うじて維持されていた長期独裁体制は1980年代以降、反体制運動を刺激・誘発し、80年代末には内戦状態となり、社会が解体する中、90年代初頭に反体制勢力がバーレ体制を最終的に打倒する救国革命に成功するが、この件については改めて後述する。

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