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近代革命の社会力学(連載第299回)

2021-09-21 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(2)コンゴ革命
 アフリカ諸国革命第二次潮流の先陣を切ったのは東アフリカではなく、中部アフリカから西アフリカにまたがるコンゴ共和国における1968年の革命であるが、厳密には、この革命はその5年前に遡る革命に続く二次革命であった。
 19世紀末の西欧列強によるアフリカ分割の原点とも言えるベルギー領コンゴと人為的な境界線によってまさに分割されたフランス領コンゴは1960年、ベルギー領コンゴ(コンゴ民主共和国)と統一されることなく、コンゴ共和国として独立した。
 そのフルベール・ユールー初代大統領はカトリック聖職者出身(還俗者)という稀有の経歴の持ち主であり、徹底して旧宗主国フランスに寄り添う親仏政策を採り、フランスの援助で国家開発を進めた。しかし、南部の部族を優遇する政策が北部の反発を招いたうえ、63年には一党支配制へ強引に移行しようとしたことがとどめとなり、全般的な民衆蜂起を招いた。
 この1963年8月の民衆蜂起では労働組合が中心的な役割を担ったが、最終的に軍が介入する形でユールー大統領は辞職に追い込まれた。この政変は8月13日からの3日間がクライマックスとなったため、「栄光の3日間」と呼ばれる民衆革命として銘記されている。
 ユール―に代わって政権に就いたのは、ユールー政権の閣僚でもあったアルフォンセ・マサンバ‐デバであった。マサンバ‐デバはマルクス主義の別称でもある「科学的社会主義」を掲げる社会主義者であり、革命翌年の64年に国民革命運動(MNR)の一党支配体制を樹立した。
 この時点でコンゴの体制は革命前の親仏体制から親ソ・親中・親玖[キューバ]の社会主義体制へと大きく転回し、産業国有化などの定番政策が展開された。とはいえ、マサンバ‐デバは本質的に穏健派であり、63年革命以来、発言力を増した軍部内でも親仏保守派が睨みを利かすなど、不安定な情勢にあった。
 そこで、マサンバ‐デバは体制固めのため、キューバの支援で青年層主体の民兵組織を創設したが、皮肉にもこの民兵組織が急進化・増長して政権を脅かすまでになった。他方、軍部内でも急進化した若手将校の中から、マリアン・ングアビ大尉が台頭し、政権を突き上げるようになった。
 ングアビと政権の対立は1968年に入って激化、マサンバ‐デバはングアビの拘束に踏み切るが、これに反発したングアビ支持の将校グループがクーデターを起こしてングアビを救出、返す刀でマサンバ‐デバを辞職に追い込んだ。
 この後、釈放されたングアビは国家革命評議会を樹立し、自ら大統領に就任する。翌年には、マルクス‐レーニン主義を綱領とするコンゴ労働党を結党し、国名もコンゴ人民共和国に改称し、アフリカ初のソ連型マルクス‐レーニン主義国家となった。
 とはいえ、すんなりとソ連型体制が確立されたわけではなかった。にわか仕立ての労働党は一枚岩ではなく、急進的な親中派から名ばかりのマルクス主義派まで分派に分かれており、しばしばクーデター未遂に見舞われて政情不安が収まらず、粛清を繰り返したングアビ政権は恐怖政治の度を増していった。
 経済的には最大の歳入源である石油の国家管理を実現したが、事実上は軍による管理となり、非効率と腐敗が進んだ。ソ連型の計画経済や集団農場も運営に必要な技術に欠け、経済的な混迷が深まった。
 そうした中、1977年にングアビ大統領が暗殺される。その首謀者としてマサンバ‐デバ前大統領が拘束され、処刑されたが、労働党の内部犯行説もあり、真の背後関係は不明である。こうしてングアビ体制は突然の幕切れとなったが、皮肉にも、ングアビ抜きの労働党支配体制はかえって強化され、90年代の複数政党制移行まで続いていく。
 この間、ングアビ暗殺後の混乱を国防相として収拾し、1979年に大統領となったドゥニ・サス‐ンゲソは当初、ングアビ支持の急進派将校と見られながら、現実路線に転換、安定した長期政権の下で市場経済化改革と旧宗主国フランスとの関係改善を続け、90年代の短期的な下野と二度の内戦をはさみながら、現時点でも大統領として労働党政権を率いている。
 このように、1968年革命を契機に結党されたコンゴ労働党がそのイデオロギーや政策を変えながら今日まで生き延びている点は、同時期のアフリカ諸国革命と比較しても特徴的であり、コンゴにおいては革命の効力が持続しているとも言える。

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