ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第292回)

2021-09-09 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(3)総選挙から独立革命への急進
 1969年の東パキスタン民衆蜂起により、アユーブ・カーン独裁政権が倒れると、いったんは東西パキスタン融和の機運が訪れる。1970年末に、独立以来初となる東西合同の議会選挙が実施されたのである。この選挙では、東パキスタンの地域政党である人民連盟が単独で過半数を獲得し、第一党に躍進した。
 とはいえ、同党の獲得議席はすべて東パキスタンに偏り、西パキスタンでは一議席も獲得できなかった。この極端な地域的偏差は旧パキスタンのように変則的な飛び地国家で単純に総選挙を実施すれば起こり得る選挙政治の陥穽であり、東西融和の機運をかえって削ぐ結果となった。
 この選挙で西パキスタン側の多数を占めたのはパキスタン人民党であり、同党を率いたのは創設者でもあるズルフィカール・アリー・ブットであった。ブットは選挙結果にもかかわらず、ムジブル・ラーマンが率いる東パキスタンの人民連盟が単独で政権党となることを拒否し、二人首相制を提唱したが、これは東パキスタン側で批判を受け、頓挫した。
 ところで、この1970年12月の総選挙は、その前月に東パキスタンが巨大サイクロン(ボーラ・サイクロン)の被害に見舞われるという異例の被災状況下で実施されたことも、事態を複雑にした。推計死者数20万乃至50万人とも言われる甚大な被害を受けた東パキスタンに対し、アユーブ・カーン辞任後の暫定軍事政権は迅速な救援対応に失敗し、被災者や東パキスタン指導者から厳しい批判にさらされていた。
 この大災害が独立革命の直接的な契機となったとは言えないが、中央政府に対する東パキスタン被災者の怨嗟が独立への精神的な動因となったことは否定できない。このように大災害が革命への精神的な動因となった類似の事例として、大震災が動因となった1970年代末の中米ニカラグアにおける革命がある(後述)。
 1971年に入っても、救援・復旧が進展しない東パキスタンではゼネストや暴動が頻発し、事態が混迷を深める中、ブットとラーマンの間では、ブット大統領‐ラーマン首相という権力分担による連合政権の樹立で交渉がまとまりかけていた。
 しかし、軍部の頭越しに行われたこうした動きに反対した暫定軍事政権は新議会の招集を遅らせて時間稼ぎに出たため、ラーマンは71年3月、東パキスタンの独立を求め、市民の不服従と武装抵抗を呼びかけた。これに対し、軍部は同月25日、ラーマンを拘束するとともに、東パキスタン独立を阻止するための軍事掃討作戦を開始した。
 この強硬策を受けて、翌日には東パキスタンで結成された武装抵抗組織・自由の戦士(ムクティ・バヒニ)によって独立宣言が発せられ、4月にはバングラデシュ臨時政府と制憲議会が設置され、独立宣言が公式に採択される運びとなった。
 こうして、東西融和のチャンスは恒久的に失われ、以後はパキスタン軍とバングラデシュ独立抵抗組織との間での熾烈な戦闘に進展していった。1971年の年末まで続いた独立戦争は単なる内戦を超えて、国際的な紛争に発展した。
 まず分割独立以来、パキスタンと緊張関係にあり、すでに係争地カシミールをめぐって二度の武力紛争を引き起こしていたインドはバングラデシュ独立を支援する形で介入してくるが、アメリカも当時ソ連との関係を深めていたインドへの牽制上、パキスタンを間接的に軍事援助していたことが後に発覚する。

コメント

近代革命の社会力学(連載第291回)

2021-09-07 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(2)東西パキスタンの離隔と格差
 前回も触れたとおり、パキスタンはその独立に際して、東西に領土が分断されるという変則的な東西飛び地国家として成立したのであるが、東パキスタンは当時のパキスタン(以下、「旧パキスタン」という)の全人口の過半数を占めており、人口構成上は多数派でありながら、政治経済的な中心は圧倒的に西パキスタンにあった。
 このような非対称性はとりわけ経済的な差別として現れ、政府の投資は旧パキスタンの全存続期間を通じて、西パキスタンに偏向していた。旧パキスタン経済において基軸となっていたジュートと紅茶の輸出収益は東パキスタンで生み出されていたにもかかわらず、その恩恵を東パキスタンは公平に享受できない状態であった。
 1960年代になると、西パキスタンにおける農業の革新(いわゆる緑の革命)と独自の絨毯産業の成長により、西パキスタンの自律性が高まると東西格差は経済成長率にも発現し、東パキスタンは取り残され、生活水準も低いものにとどまった。
 こうした東西の経済格差は、地理的な離隔ともあいまって、東西パキスタンの事実上の分断状況を強めていく。経済構造面では1960年代において、すでに旧パキスタンは東西に分離していたとも言え、実際、東パキスタン側からは、外国為替の東西分別管理や海外貿易代表事務所の東西分割といった経済的分離主義の主張が出されていた。
 こうした下部構造面での東西分離が進む一方で、上部構造面でも、如上のとおり、旧パキスタンの人口構成上は多数派の東パキスタンのベンガル人が官界や軍部で占める割合は低く、共に10パーセント台にとどまっていた。
 実際のところ、こうした東パキスタンへの差別は、1958年に軍事クーデターで政権に就いたムハンマド・アユーブ・ハーン大統領の時代に強まった。69年まで続いたアユーブ・ハーンの時代は西パキスタンにとっては「進歩の10年」と呼ばれる経済成長期であったが、東パキスタンにとっては閉塞の10年となった。
 そうした中、東パキスタンでは民族主義的な地域政党である人民連盟が台頭し、1966年には同連盟の創設者であるシェイク・ムジブル・ラーマンが中心となって、外交と防衛に限局された連邦の創設、通貨や外国為替会計の分離、徴税権の分割、東パキスタン独自の軍の保有などを柱とする六項目の要求を掲げた。 
 この「六項目運動」の狙いは、経済的な分離にとどまらず、政治的な面でも東パキスタンに完全な自治権を与えることにあったが、結果的に東の独立につながりかねないこの提案は当然にもアユーブ・ハーン政権からは拒絶され、実現されることはなかった。
 それどころか、アユーブ・ハーン政権は、ムジブル・ラーマンら人民連盟幹部らがインドと共謀して武力革命を企てた容疑で起訴するという弾圧策に出たのであった。1968年に提起されたこの案件は政権にとっては藪蛇となり、翌年、学生運動に始まる東パキスタンでの激しい抗議デモを惹起した。
 この民衆蜂起の渦中、政権はムジブル・ラーマンらへの起訴を取り下げることで慰撫を図ったが、鎮静化させることはできず、アユーブ・カーンは辞職に追い込まれた。この1969年民衆蜂起は大統領の辞職を結果した点で半革命的な意義を持つ出来事であり、これを契機に東西の融和に向けた新たな局面が生じることになる。

コメント

近代革命の社会力学(連載第290回)

2021-09-06 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(1)概観
  バングラデシュを含むインド亜大陸は、歴史的に革命とは無縁の地であった。もっとも、19世紀半ばには、当時インド侵出の先鋒となっていたイギリスの国策会社・東インド会社に対する反発が爆発し、大蜂起に進展したことはあった。
 この蜂起は東インド会社に雇用されていた傭兵シパーヒの蜂起に始まり、やがて階級の上下を超えた社会総体による反英蜂起の様相を見せ、一時は亜大陸の三分の二の地域に拡大したが、基本的には当時すでに形骸化していたムガル帝国の再建という復古的な目標以外にさしたる理念はなく、革命的な統治機構も未整備のままであった。
 結局、反転攻勢に出たイギリス軍によって順次撃破され大蜂起は収束、かえってイギリスによる直接的な統治下に編入されるという逆効果に終わった。そうした経緯からも、この19世紀インド大蜂起は、革命的事象というより反英大蜂起、あるいは―20世紀の独立運動と対比する形で―第一次独立運動と呼ぶべき事象である。
 その後、長いイギリス統治の時代を経て、第二次大戦後の1947年にインドはようやく真の独立を果たすことになるが、この20世紀における第二次独立運動では、マハトマ・ガンジーによる非暴力抵抗が主流となり、独立革命という形を取ることはなかった。
 そのうえ、宗主国イギリスは、第二次大戦に勝利しながら多大の損害を負い、本土復興を優先するためにも、最大規模のインド植民地を維持できなくなり、インドの領有を断念したという事情も僥倖の追い風となって、交渉を通じた平和的独立を果たすことに成功したのである。
 しかし、この独立は、ヒンドゥーとイスラームというインド亜大陸における二大宗派によるインドとパキスタンの分割独立という変則的な結果を伴ったことから、深刻な派生問題を副産物として生じることとなった。
 ヒンドゥー教を主体とするインドに対し、イスラーム教を主体とするパキスタンは、イスラーム教徒の分布状況から、領土がインドを中間に挟んで1000キロ以上も離隔した東部と西部に分断された。この分断は領土の線引き問題にとどまらず、主にウルドゥー語を使用する西パキスタンに対し、ベンガル語を使用する東パキスタンという言語的な分断状況を伴うものであるだけに深刻であった。
 しかし、独立パキスタンの権力中心は西パキスタンにあり、経済開発も西に偏り、東パキスタンのベンガル語話者(ベンガル人)は疎外感を強めていった。そのようなパキスタン内部の東西対立が1970年代に入って激化し、ついに東パキスタンの独立革命/内戦へと発展した。
 その背後には、独立プロセス以来のインドとパキスタンの遺恨的な対立緊張関係という外部の力学も関与しており、東西パキスタンの内戦に進展する中で、インドは東パキスタンを支援するという代理戦争の性格も持ったが、最終的にインドの支援を得て勝利した東パキスタンが「ベンガル人の国」を含意するバングラデシュとして独立を果たすことになる。
 そうした意味で、1971年のバングラデシュ独立革命は、1947年のインド/パキスタン分割独立が積み残した問題から派生した事象であり、また、革命と無縁であったインド亜大陸における初めての革命的事象であったとも言える。

コメント

南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第23回)

2021-09-05 | 南アフリカ憲法照覧

全州評議会の権限

【第68条】

立法権を行使するに当たり、全州評議会は‐

(a)この章に従い、全州評議会に上程されたあらゆる法案を審議し、可決し、修正し、修正案を提起し、または否決することができる。

(b)附則第4条に掲げられた権能領域内の立法もしくは第76条第3項で言及されたその他の立法を開始し、または準備することができる。ただし、財政法案についてはこの限りでない。

全州評議会に提出される証拠または情報

【第69条】

全州評議会またはそのいかなる委員会も‐

(a)宣誓もしくは誓約に基づき証言し、または文書を提出するため、あらゆる人を召喚することができる。

(b)あらゆる組織または個人に対して報告を求めることができる。

(c)国の法律もしくは規則及び命令の定めるところにより、あらゆる個人もしくは組織に対し、a号もしくはb号に規定する召喚または要求に応じるよう強制することができる。

(d)利害関係を有するあらゆる個人もしくは組織から、請願、説明または上申を受けることができる。

全州評議会の内部的協議、議事及び手続き

【第70条】

1 全州評議会は‐

(a)その内部的協議、議事及び手続きを決定し、統制することができる。

(b)代議的かつ参加的民主主義、説明責任、透明性及び公衆関与に適正な配慮をしつつ、その任務に関する規則を作成することできる。

2 全州評議会の規則及び命令は次のことを定めなければならない。

(a)委員会の設立、構成、権限、機能、手続き及び存続期間

(b)すべての州が評議会及び委員会の議事に民主主義にかなった方法でする参加

(c)ある議題が第75条に従って決定される場合に、評議会に議席を持つ少数政党が評議会及び委員会の議事に民主主義にかなった方法でする参加

特権

【第71条】

1 全州評議会代議員並びに第66条及び第67条で言及された人は―

(a)評議会及び委員会において、その規則及び命令に従い、言論の自由を有する。

(b)次のことを理由に、民事もしくは刑事の起訴、逮捕、投獄または損害賠償の責任を負わない。

 (ⅰ) 評議会もしくはそのあらゆる委員会において発言し、提示し、または上申した事柄

 (ⅱ) 評議会もしくはそのあらゆる委員会において発言し、提示し、または上申した事柄の結果として明らかにされた事柄

2 全州評議会、全州評議会代議員及び第66条及び第67条で言及された人のその他の特権並びに免責事項は、国の法律によって定められる。

3 全州評議会代議員に支払われる報酬、手当及び給付は、国庫基金の直接負担である。

評議会への公衆のアクセス及び関与

【第72条】

1 全州評議会は‐

(a)評議会及び委員会の立法並びにその他の手続きへの公衆の関与を促進しなければならない。

(b)その任務を開かれた方法で行い、かつ評議会及び委員会の議事を公開しなければならない。ただし、次の目的のために合理的な措置を取ることができる。

 (ⅰ) メディアの取材を含む公衆の評議会及び委員会へのアクセスを規制すること。

 (ⅱ) 特定の人を捜索し、及び適切な場合は特定の人の入場を禁止し、または強制退場させること。

2 全州評議会は、開かれた民主社会において合理性及び正当性が認められない限り、メディアを含む公衆を委員会の議事から排除しない。

 第68条から第72条までは、全州評議会の権限や代議員特権等に関する細則である。国民議会に関する第55条乃至第59条に相応する部分である。
 国民議会の場合と重なる点も多いが、権限に関しては国民議会にあった監督の権限は存在しない。また全州評議会は州の代表院であることから、その議事等は各州の平等な参加が確保されるように配慮される。

コメント

ワクチン全体主義への警戒

2021-09-04 | 時評

イタリアのマリオ・ドラギ首相が2日、対象となる人全員への将来的なワクチン接種の義務化を検討すると表明した。これは「ヨーロッパ医薬品庁(EMA)が正式に新型コロナウイルスのワクチンを承認すれば」という条件付きのものではあるが、先般アメリカでも正式承認されているので、いずれ承認されるだろう。

任意接種の原則の下、ワクチン接種率が多くの諸国で頭打ちとなる中、感染力の強い変異株の登場でいわゆる集団免疫の成立に必要とされる接種率のレベルが引き上げられているため(接種率90パーセント程度)、いずれ強制接種論が出てくることは予見し得たところではある。

件のドラギ首相という人は本来は政治家でなく、財務官僚やイタリア銀行総裁、欧州中央銀行総裁なども歴任した銀行家であり、資本至上主義(通称・新自由主義)の実務者としてイタリアにおける公営企業の大規模な民営化の推進役でもあった人物である。

そうした背景の人物が首相としてワクチン接種義務化に触れたのは、経済界の意を汲んでのことであろう。経済界としては、コロナ危機を脱するうえで、経済活動を大きく制約するロックダウンよりワクチン義務化の方が好都合であり、また労務管理上も得策と見ているのである。すでに、企業独自の社内政策としてワクチン義務化を推進している社も欧米では出ているところである。

一方、日本ではそもそもワクチン供給の遅滞により義務化をうんぬんする段階ではないようだが、河野太郎担当大臣は、任意接種でも接種率6割までは達成できるが、「そこから先をどうするのかという議論はしていく必要はある」と意味深長な発言をしている(参照記事)。

河野大臣はワクチン供給の担当相であると同時に、菅首相の事実上の辞意表明に伴い、巷間の‘期待感’や自民党内第二派閥に属する立場から、近く行われる自民党総裁選に立候補した場合、次期首相への現実的な就任可能性も出てきた人物であるだけに、今後の動向が注目される。

ちなみに、この発言の対談相手である橋下徹は若者に対するワクチン義務化に肯定的で、「「差別につながる」というきれい事の話よりも、やはり日本の国を守るために若者にワクチンを普及させること。利益と結びつけて、ある意味ニンジンをぶら下げて若者にワクチンを打たせることは、必要不可欠」と発言している。

この人物が創設した現在の日本で最も資本至上主義志向の政党が次期総選挙で躍進するとの予測があり、かつ本人自身の入閣可能性もしばしば取り沙汰されてきたことも、念頭に置くべきであろう。

このように、正面から義務化を打ち出すかどうかにバリエーションはあれ、何らかの形でワクチンを義務化する潮流は、これから世界的に生じていくと予測される。それによって懸念されるのは、差別という問題以上に、医療における自己決定の自由が奪われるという問題である。

その意味で、これは国民のほぼ全員にワクチンを強制する「ワクチン全体主義」とでも呼ぶべき新たな政治経済思潮の登場である。そうした潮流が現代型全体主義国家のモデルを提供している中国ではなく、自由人権を謳う欧州から現れたとすれば、かなりのショックではあろう。*中国は(でさえ)現時点では任意接種制が建前だが、一部地方当局が強制しているとの報告あり(参照記事)。

こうした潮流に対抗できるのは、反ワクチン・デマゴーグではない。自身の売名やその他の利益が狙いのかれらは実際に義務化されれば簡単に陥落するか、すでに自身はこっそり接種を受けている可能性すらある?からである。

真に対抗できるのは、医療における自己決定権を守ろうとする個々人の社会的な抵抗力にほかならない。いくら義務化とはいえ、警官がワクチン拒否者に手錠をかけて接種場所まで引きずっていくことまではできまいし、ワクチン拒否者を片端から検挙して罰則を科するというようなことも現実的ではないからである。

しかし、それを見越して、ワクチン・イデオローグ側にも奥の手はある。文字通りの義務化ではなく、例えば、各職場の経営者や人が集まるイベントの主催者、店舗等の管理者らに、労働者や参加者・入店者のワクチン証明を求めるかどうかの裁量権を与えてしまうことである。

このような裁量的義務化政策が施行されれば、人は自分が働く/働きたい職場のほか、参加したいイベントや入店したい店舗等がワクチン証明を求める限り、嫌でも接種を受けざるを得なくなる。

敵にヒントを与えてしまうようで後ろめたいが、このような心理的間接強制の制度は、個々人の社会的な抵抗力を萎えさせる上で、直接的な強制による以上に、効果的である。こうした狡猾なやり方に抵抗するには、失業も覚悟の勇気と行きたい場所に立ち入らない忍耐とが必要になるだろう。

ワクチン全体主義に対するより究極的な抵抗力は、―全く望まないことだが―既存ワクチンが功を奏しない新たな最凶レベル変異種が登場することによりワクチンによる集団免疫論が完全に破綻し、ワクチンより治療薬の普及が求められるようになるという―ある意味では医療における正攻法の―新たな展開から生まれるだろう。

コメント

近代革命の社会力学(連載第289回)

2021-09-03 | 〆近代革命の社会力学

四十 中国文化大革命

(4)文化大革命の転回
 文革は1970年代に入ると、その初発・前半期には見られた革命的な性質を失い、まさに中共内の権力闘争へと転回していくことになるが、その予兆は早くから見えていた。
 文革前半期を特徴づけた紅衛兵運動は毛沢東から支持を受けて増長し、粗暴さを増していたところ、当初こうした紅衛兵運動を自身の権力闘争の下支えとして利用できると考えていたと見られる毛も、運動が過激化し、ついには一部の紅衛兵らが毛の中農出自を槍玉に上げるに至ると、これを危険視するようになった。
 こうした紅衛兵運動の過激化を放置しておけば、その矛先が毛自身と文革指導部にすら向けられ、まさしく民衆革命となりかねなかったため、1967年に入ると、文革指導部は人民解放軍を動員して紅衛兵の掃討に動いた。
 その結果、68年までには紅衛兵運動は沈静化し、同年以降は、知識青年層の再教育という名目で、知識青年上山下郷運動と称する学生の強制的な地方農村送致・徴農制が開始されたことにより、「造反有理」から青年層を統制・馴致する政策に転換した。
 一方、権力闘争という観点から見ると、1968年10月の党中央委員会において、文革が標的とした実権派の指導者と目された劉少奇国家主席の党からの除名が決定されたことにより、ひとまず決着がついていた。
 この後、劉少奇に代わって文革参謀役の林彪が大きく台頭し、69年には正式に毛の後継者として認知されるに至る。しかし、これで文革完了とはならず、この後は文革派内部での権力闘争に転化されていく。
 とりわけ、ナンバー2に浮上した林彪に対する毛の疑心が増幅したことが、新たな権力闘争の火種であった。発端は、劉少奇の失権後に空席となっていた憲法上の元首に相当する国家主席職の廃止を毛が提案したのに対し、林がこれに異議を唱えたことであった。
 この政体論争は表面のことで、その実態は老境に入り疑心暗鬼になっていた毛が林の政治的な野心を必要以上に疑ったことにあったのであるが、これはすぐに権力闘争に発展する。林は機先を制するべくクーデター計画を推進し、1971年9月には毛暗殺を企てたが、未然に発覚、林は家族とともに空軍機でソ連へ逃亡する途上、モンゴル領内で墜落死した。
 状況的には謀略の可能性も想定されるところであるが、パイロットの操縦ミスが墜落原因とされている。いずれにせよ、文革参謀役・林彪の墜落死(林彪事件)によって、文革は新たな段階を迎えた。
 この時期になると、前回見た革命委員会の制度も再生された党組織に吸収される形で形骸化してきており、革命性を喪失していた。一方、女優出自で毛夫人の江青を含めたいわゆる文革四人組は、毛夫人として特権的な地位を持った江を除き、他の三人(王洪文・張春橋・姚文元)は従来の党組織内でそれぞれ昇進を遂げていた。
 こうして、文革後半期は革命的性質を喪失し、文革四人組を中心とした新たな党指導部による権力政治へと転回していくのである。この後半期文革体制は1976年の毛の死去まで続き、毛の死去を待って、華国鋒を中心とする新たな党指導部が四人組の検挙に踏み切った時に終焉した。
 翌1977年には、文革渦中に実権派として排除されていた鄧小平が復権、その年の党大会で文革の終結が宣言されるが、この時は依然党内に残存する文革派に配慮して、文革の「勝利」というレトリックを必要とした。そのため、真の意味で文革が終了したのは、まさしく実権を握った鄧小平の下で1978年以降、改革開放路線が始動した時であった。
 今日まで続くこの新路線は、まさに毛らが文革の標的とした「走資派」による修正主義の道であったが、皮肉にも、この路線こそ中国共産党が本家ソ連共産党より長期的に成功する要因となる。

コメント

近代革命の社会力学(連載第288回)

2021-09-02 | 〆近代革命の社会力学

四十 中国文化大革命

(3)紅衛兵運動と革命委員会
 文革が単なる権力闘争を超えた「革命」としての性質を帯びたのは、下からの革命的隆起という力学が見られたからである。それを象徴するのが、1966年5月、名門の精華大学附属中学に在学する高校生に相当する年代の生徒らが創始した紅衛兵運動である。
 紅衛兵運動は毛沢東思想を教条的に信奉する青年運動としてたちまち全国に拡散したが、単なるデモ行動のようなものではなく、紅五類と称される労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士の子女のみが紅衛兵となる資格を持つ排他的な運動として組織化された。
 かれらは、紅五類の反対属性である黒五類に分類された地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子及びその子女らを反革命派として敵視し、攻撃する運動を展開した。66年8月には毛が「造反有理」の言葉で紅衛兵を支持する書簡を発したうえ、党の「プロレタリア文化大革命に関する決定」でも事実上紅衛兵運動が公認されたことで運動は弾みを得て、過激さを増した。
 その活動は短期間で暴力的なものとなり、反革命派への暴行・陵虐や反革命的とみなされた施設の破壊などの人的・物的なテロ活動にさえ及ぶようになった。その象徴として、66年8月から9月にかけて北京市の教員ら2000人近くが紅衛兵に殺害された「赤い八月」事件がある。
 文革はこうした党外部の紅衛兵運動だけではなく、内部的にも党組織の変革運動を刺激した。その象徴として、1967年以降、従前の党組織を解体する革命委員会の制度が現れた。
 その発端となったのが、同年1月から2月にかけて、文革「四人組」の一人である王洪文と張春橋が中心となって、上海の市政府と党委員会を打倒して設置した上海人民公社である。
 この「上海革命」は当時紡績工場の労働者造反組織を率いていた工場労働者の王洪文が決起して、従来の党組織の解体を求めたことに端を発しており、文革の過程の中でも下からの革命のハイライトとなる事象であった。
 上海人民公社は、「大躍進」の時に政策的に導入された従来の制度的な人民公社とも異なり、実権派が握る党官僚組織を解体したうえ、パリ・コミューンに範を取ったとされる新しい民主的な地方組織として構想されたもので、基本的に労働者人民と人民解放軍、党の代表三者による市政府と党委員会を統合した協同的な権力体であるとされた。
 毛の文革指導部もこうした新しい地方統治モデルを承認したため、上海人民公社が上海革命委員会と改称した後、68年9月までに同種の構造を持つ革命委員会の設置が全国に広がった。
 しかし、多くの革命委員会では解放軍代表が実権を握るようになり、実態は軍政に近いものとなった。このように解放軍が前面に出てきたのは、おそらく当時、軍人で国防部長(国防相)の林彪が毛の最側近として文革の参謀役を務めていたことと無関係ではなかったろう。
 革命委員会を通じて正規軍である人民解放軍の力が増強されたことになるが、一方で、革命委員会には党代表も参加したことで、結局のところ、革命委員会は当初の理想から外れ、従前の党組織の再編に近いものへと変節していく運命を免れなかったのであった。

コメント