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旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ボストンをもう少しみてからアムトラックでNYCへ

2021-05-26 22:48:23 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より

ブルックリン側のレストランからイーストリバー越しに見るNYCマンハッタンの夜景。

朝、NYC行き列車アムトラックに乗る前にボストンをもう少し見学。

「クリスチャンサイエンス」は1879年にメアリー・ベイカー・エディという女性によってはじめられたキリスト教の宗派。彼女の著作は今も読まれ続けている。

ロビーで紹介されていた1850年ごろ撮影された彼女の写真。
当時のダゲレオタイプ=銀板写真に彩色し、服の部分は本物のビロードを張り付けて加工したそうだ。

ボストンを中心に世界・日本にもネットワークを拡げ、教会のよれば世界中で四十万人の信徒をもつそうな。

同名の新聞も発行している↑ちょうどイラクから解放されたアメリカ人の記事の日だった。

**
ボストンで一番の個人コレクション美術館(と思う)イザベラ・ガードナーも訪れた※内部撮影禁止

オーナーが作品の展示まで細かく指示する遺言を残してあるので、おいそれと環境を変えられない。
1990年に強奪されたフェルメールの「合奏」とレンブラント三点の場所には空になった額だけが飾られていた。
***
ボストン駅

アムトラックの車内は新幹線とはだいぶちがうけれどゆったりしている。

スーツケースはポーターさんがこんなふうに積んでくれた。


マンハッタンが近づく

ペンシルヴァニア駅の地下ホームに到着。
お迎えのガイドさんがポーターさんを待たせてくれていた。

ローワー・マンハッタンをドライブ

「フラット・アイロン・ビル」はその名前のとおりとっても平たい。

イーストリバーを渡り、ブルックリンのレストランへ。
ウィリアムズバーグ橋のすぐ下にあるレストランに入った時にはまだ明るかった↑

大きな店だがいっぱいの店内。


ステーキが人気の[Giando on the Water]

夕食後にレストラン前の桟橋を散歩。
イーストリバーには現在十本もの橋がかかっていて夜景スポットがたくさんある。
「もうひとつ見たい」と、1883年最初にかけられたブルックリン橋のたもとへ車で移動。

ぱっと見同じようにみえるがこれは↑ブルックリン橋からマンハッタン橋をみたところ↑
ブルックリン橋の二十年後・1903年に前出の夕食レストランGiando側ウィリアムズバーグ橋がかけられた。
****
夜景めぐりはまだ続く

エンパイアステートビルの上まであがることにした。

マンハッタンは碁盤の目状にまっすぐな道が整然と敷かれているので

上からみると光の筋が美しい

↑印象的なアールデコの尖塔はクライスラービル↑1928年建設の319m
眺め降ろしているこのエンパイアステートビルはその二年後の1931年完成381m
映画でキングコングが登ったのは1933年

ニューヨークに到着した午後をめいっぱい楽しんで、ペンシルヴァニア駅近くのホテルに戻った。

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2006ボストン・ポップスのコンサートへ

2021-05-24 07:39:40 | アメリカ東部
2006アメリカ東海岸の旅より

これまで観てきたなかでも指折りの楽しいコンサートだった。

1885年にはじまったボストン・ポップスは、「クラシック嫌いのためのコンサートを」というコンセプト。

ヨーロッパからの移民してきた人々は富裕層であってもクラシック音楽に親しんでいない人が多かった。
上の↑LPレコード「クラシック嫌いのためのクラシック音楽」のジャケットでは、ウィーン歌劇場の指揮者だったグスタフ・マーラーを思い出させる人物がタクトを振り、観客はカギ付きの椅子に縛られて身動きできない↑ これはボストン・ポップスの伝説的指揮者だったアーサー・フィドラー時代の作品。彼は1930‐79の四十九年間も首席指揮者を務めた。
マーラーはクラシック音楽の演奏会を飲食禁止にし、会場でのおしゃべりを禁止にし、「堅苦しい(と、思うかもしれない人は多いだろう)」スタイルに改革した。ちょっとした皮肉が込められたジャケットだ。
午後八時開演の会場。

指定された席にいくと丸テーブルにワインが置かれていた↑「当然飲むでしょ」という感じ(^^)

「やあ、どちらから?」小さな丸テーブルで同席になると、アジア人の我々にも気さくにはなしかけてくれるアメリカの人々。ウィーンのコンサートでこういう雰囲気になるかしらん。

コンサートがはじまるとステージにスクリーンが降りてきて、ボストンの名所が映し出される。

アメリカの歴史が誇らしげに語られ、ちなんだ曲が演奏される。


インターバル

フィドラーの跡を継いで1995年から現在2021まで人気指揮者でありつづけているキース・ロックハート。

演奏者は男女民族関係なく選ばれているのが感じられる。
ウィーンフィルとはだいぶんちがいます。

後半は映画音楽特集だった。

ロンドンが舞台の「マイ・フェア・レディ」もアメリカ映画。
一時常任指揮者だったジョーン・ウィリアムズの「JAWS」もやったっけ。

アンコールの定番曲は「星条旗よ永遠なれ」

天井から星条旗が降りてきてアメリカ人の愛国心は最高潮!
さらに、花火があがると、たまらずみんな立ち上がった(^^)
サーチライトが客席をぐるぐる照らし回る
※客席からのものをゆずっていただいたのでこちらのyoutubeからご覧ください※音ができます

動画を観て・聴いてもらうとわかるが、これはウィーンフィルのニューイヤーコンサートのアンコール曲「ラデツキー行進曲」を意識している。観客が拍手する様子、よく似ております(^^)

夜十時をだいぶまわってコンサートは終了。
ホテルを徒歩圏にしておいてほんとによかった(^^)
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ハーヴァードからボストン美術館へ~「我々はどこから来たのか…」

2021-05-22 08:25:25 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より

D'où venons-nous ?
Que sommes-nous ?
Où allons-nous ?

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
タヒチで二十歳の娘の訃報をうけとったあと、四十九歳のゴーギャンが完成させた。
経済的にも行き詰まり、完成後に自殺を試みたとされている。
この作品に出会うためにだけでもボストン美術館に行く価値がある。

午前中にフリーダムトレイルを歩き、クインシー・マーケットでお昼。
午後はハーヴァード大学とボストン美術館を訪れた。

六月、ハーヴァード大学は卒業式の準備がすすめられていた。

卒業式は野外で行われる。
著名人のスピーチが続く七日間のお祭り週となる。
学内は我々のような旅人もノーチェックで自由に入れる。
こうやって創立者ハーヴァードさんの像に触ることもできる。

ハーヴァード大学の校章に刻まれたモットーは「VERITAS=真理・真実」
聖書のヨハネ福音書にある「veritas liberabit vos」(真実・真理はあなた方を自由にするだろう)からとられた。

アメリカにキリスト教の宗派はたくさんあるが、学内の教会はそのどれにも属さないそうだ。

その壁には戦争で落命した校友たちの名前がずらりと刻まれている。

学校グッズのショップも充実しております(^^)
※ハーヴァード大学については2012年に訪れた時のブログもご覧ください
**
ボストン美術館へ向かう。

冒頭の言葉が書かれたゴーギャンの作品↑全体はこんなに大きい。
縦約1.4m×横約3.8m。実際にそのサイズを知ると、もっと大きな絵はいくらでもあるとわかるのだが、サイズ以上の大きさを感じさせる。

画面の右から左へ人生が展開していると解説されることが多い

左下に画面唯一の老女が「これでよかったのか?」というような横目で振り返っている。
白い鳥はどこへいざなうのだろう。


モネが三十六歳の時に、妻のカミーユをモデルに描いた。
まだ睡蓮の庭なんか影もカタチもない時代。すでに日本趣味だったのだ。

ボストン美術館は日本美術でも有名。

ただ集めているだけではなく、その展示環境も考慮されている。

もちろんホンモノのお寺のようにはいかないが、そのような光の下で見ることは必要。


曾我蕭白の「風仙図屏風」↑退治しようとしている竜の姿を描かず↑左の真っ黒な風?で表わす迫力
日本にあったら重要文化財指定まちがいなし。

↑三万枚を超える浮世絵をボストン美術館に寄贈したビゲローWilliam Sturgis Bigelow(1850–1926)を、浮世絵画家・小林永濯が描いた軸。フェノロサや岡倉天心と共に明治初期の日本美術を守り・収集し、故郷ボストンに伝えた人物。大津の三井寺に葬られている。

あ、加納芳崖の「悲母観音」?↑よく似ているけれど、岡倉秋水(天心の甥)が描いたものだった。

これ中国だったか韓国だったかメモしていなかったのだが↓


実に美しい。


ヨーロッパの伝統的な美術もあるが


印象派をはじめとする、従来のサロンに受け入れられていなかった画家達を最初に評価したのはアメリカだった。

モネはその代表格。
モネの没後に荒れ果てていたジベルニーの睡蓮の庭を修復したのもアメリカマネーだった。

アメリカらしい作品も充実している

※オキーフのこんな大作、2015年にニューメキシコでオキーフ美術館に行った時にもなかった
※こちらで書いています


エドワード・ホッパーらしい、明るくシーンとした画面

※2010年に大きく改築されたボストン美術館、加わったアメリカ美術のセクションを2012年に解説していただきました。こちらからご覧ください。

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ボストンのフリーダムトレイル~ビーコン・ヒルからポール・リヴィアの家へ

2021-05-21 07:25:25 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より

1776年7月18日、独立宣言が読み上げられたバルコニーは、ビルの谷間に埋もれている。

建物は1713年ごろのもの。日本なら赤穂浪士討ち入りの十年あとぐらい。

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前日夜に日本から到着し、ボストン・シンフォニーからすぐのホテルに泊まった。
ここを選んだのは夜のコンサートのため※別記

市民に「T」と呼ばれているボストン地下鉄の「シンフォニー駅」に入る

アメリカ最古19世紀末に建設された線なので、地上からごく浅いところを走っている。

2006年にはトークンというメダル形状の切符を買って改札に投入しておりました

「パークストリート駅」まで四駅。
降りて地上に出ると「ボストン・コモン」
「公共公園」というと聞こえが良いが、英国軍の軍事教練の場所であり海賊の処刑や魔女裁判も行われた。

↑全長約四キロ アメリカ独立戦争のはじまりを記憶する「フリーダム・トレイル」はここからはじまる。

少し坂になった丘=ビーコン・ヒルにそびえる金色のドームはマサチューセッツ州議事堂。
1798年に完成した時は木製だったが、後ででてくるポール・リビアが銅でカバーした。金箔が貼られたのは1874年。
※ボストン美術館に銀製のお茶入れを持つポール・リビアの肖像画があって、これがフランドル絵画のよう(^^)絵画好きな方には必見。2012年に訪れた時の写真を載せましたのでご覧ください。

議事堂のすぐ前に↑はじめての黒人兵士が行進する記念碑がある。

第54マサチューセッツ歩兵連隊は南北戦争時、はじめて黒人だけで編成された部隊。

↑騎乗の司令官はしかし白人のロバート・グールド・ショー↑
1989年の映画「グローリー」のモデル
戦争はいつでも、差別されていた人々が認められていく契機になってきた。
この部隊は1863年のワグナー砦攻略戦で半数近い犠牲者をだし司令官のショー自身も戦死している。
つまり、この碑に描かれたボストンから出兵する行進は、ショーや多くの兵士にとって今生の分かれになったということ。
**

1809年に建造されたパークストリート教会は当時のボストンのランドマーク。
港に入る船から見える、当時全米一の高さの建物だった(約六十メートル)の塔だった。
景観だけでなく、アメリカ社会のランドマークでもあった。
1829年にはじめて奴隷解放の演説が行われた場所であり、女性参政権運動、刑務所の待遇改善運動などの人権運動の拠点になっている。英米戦争の頃には教会の地下には火薬が貯蔵されていた。


教会の隣のグラナリー墓地には建国初期の有名な人物が多く葬られている。

↑このオベリスクはフランクリンの家族のもの。100ドル札で有名なベンジャミン・フランクリンはフィラデルフィアに葬られている。

※この周辺について2012年の旅で書いたブログをごらんください


↑無骨なキングス・チャペルはその名前のとおり英国系の教会として建設された。
一見大理石の柱だが・・・

木造なんです。

内部は有力なファミリー用の「個室」がならぶ。冬場はこの方が暖かかったのです(^^)
1776年3月17日、大陸植民地連合に包囲されていた一万一千人の英国軍とおよそ一千人の王党主義者たちは無血でボストンを明け渡す。この教会は英国国教会から、アメリカではじめてのユニタリアンの教会になった。
塔で鳴っている鐘は1816年にポール・リヴィアが制作したもの。二百年の現役。


↑あ、水陸両用戦艇をつかった観光「ダック・ツアー」↑

アメリカ最初の学校=「ボストン・ラテン語学校」が1635年4月開校した場所に

それを記念するモザイクプレートが設置されている。

裕福でなくても入学できたが男子のみ。その歴史は1972年まで続いた。
ベンジャミン・フランクリンは十歳までここの生徒だったが退学して印刷・出版会社の徒弟となった。

フランクリンの像がある。

後ろの建物はボストン旧市庁舎↑今は中に高級ステーキハウス


****

この頁の冒頭写真1713年建設のイギリス時代の植民地事務所⇒独立後の旧州議事堂だった建物↓

イギリスのマサチューセッツ植民地役場だったので↑切妻の左右にはイギリス紋章のライオンと一角獣↑
1770年3月5日に起きた「ボストン虐殺」の絵にも描かれている

事件現場を表す表示がこれ↓




ファニュエル・ホールは自由スピーチの場所として有名。

遅めのお昼をとなりのクインシー・マーケットにて、クラムチャウダーやロブスターロールを

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さらに北に向かうと1680年ごろに建設されたボストンでも指折りに古い「ポール・リヴィアの家」がある。

1770年、三十五歳の銀細工師ポール・リヴィアは家族と共にここを購入。五年後1775年4月18‐19に英国軍の動きを大陸愛国者たちに通報する夜の騎馬行をした↑このかっこいい騎馬像はそれをあらわしている。アメリカの小学生がみんな習うのだそうな。

この家は19世紀を通じて移民たちの安宿として営業していたが、1908年に史跡として買い取られ、博物館として営業している。

↑ポール・リヴィアが生きていた18世紀後半の地図↑青いのが当時の海岸線。
後にどれだけ埋め立てられたのかがわかる。


この周辺は下町で八百屋さんがたくさん

近くのノース・オールド教会

この教会の塔に掲げるランタンの数で英国軍が陸路か海路かを知らせた。




車に乗って川向うの大学地区へ

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ホワイトサンズ国定公園

2015-10-08 20:48:05 | アメリカ東部

《手造の旅》ニューメキシコ二日目

ついにやってきました!ホワイトサンズ国定公園

夢見た白い石膏の砂丘が目の前に広がる深い蒼色の空に、どんな絵描きでも再現できない美しい雲がながれてゆく。

**メキシコと国境を接するエル・パソの街から北へ二時間。「午後から雨」という天気予報を心配しながら向かった。途中で一度フロントグラスに雨粒があたり心配したが、ビジターセンターに到着するとこの空の青日干し煉瓦の赤茶色と白い砂は、青空の背景によってより引き立てられる。

ゲートを入ってしばらくドライブすると、道路は白砂の中にはいっていくこの石膏の砂丘は奄美大島と同じぐらいのスケールでひろがっているが、国定公園として我々が入っていけるのは北部のごく一部にかぎられている。※なぜなのかは後述

車で走れるのは12.8㎞の「デューンズ・ドライブ」のみ。その途中に四か所ほどのトレイルの入口がある。

歩きはじめる前は、「ざらざら崩れて歩きづらいだろうし、砂は熱いんだろうな」と思っていた。

とぉころが、おそるおそる裸足になってみると全然ちがう。砂は適度に締まって、足はめりこまない。ひんやり冷たく気持ち良い。ここは裸足で歩こう!砂の質は砂漠によってこんなに違うのか二日前に大雨だったので、水を多く含んだ場所は足の裏からすぐに分かる。今日はたまたまなのだろう、ちょうど良く固く、気持ち良いコンディションになっていたのだった。幸運に感謝。

●トレイルといっても砂山の中。道がはっきりあるわけではなく、ぽつんぽつんとこんな杭が打ち込んであるだけ。次の杭を見つけて追ってゆくトレイルである今日は風も無く、見渡すと「次の杭」をすぐに見つけられたが、砂が舞う日は自分の来た道を見失いかねないだろう。

美しさにつられて、どんどん奥へ迷い込んで遭難、あり得ます。

三か所歩いたうちの一か所だけ、こんなボードウォークになっているここは15分ぐらいで往復できる程度の距離。

★足元をさっと走るものを発見!そヤツが隠れた草に近寄って目を凝らす。見えますか?⇒ぢっと…自分の身体の白さをまわりに溶け込ませている。カメラをゆっくり近づけて 正面からもこんにちわ名前はブリーチド・イヤーレス・リザード=漂白耳無しトカゲ。みんなに囲まれてうごけません

少し雲が多くなってきた夕方

●夕暮れに行われる「サンセット・ストロール」に参加した。レンジャーの方の自然や動植物についての説明を聴きながら、少し散歩。手渡してくれたこの岩石が白い砂の素なのだそうだ

砂にしっかり根を張って水分を抱えた植物そこに食い込んで生きのびている小さな動物や昆虫や蛇。多くは陽射しのない夜に活動する。そうだろう、今日の様な10月の気持ち良い日でも、しばらく歩くと汗ばんで喉が渇くのだから、夏場の昼間にはとんでもない暑さにちがいない。

陽が傾いて影が長くなってくる

風紋もくっきりうつくしく遠くの岩山が赤く染まってゆく

**ホワイトサンズ国定公園のある白い砂漠の側は、ミサイルの発射実験が行われる場所。来る途中にこんな看板がたくさんあった⇒「あなたはホワイトサンズミサイル実験場に入ってきています」※実際に行われる時には通行止めになる道路の一角だということ。 「ミサイルギフトショップへどうぞ」とも書かれている。そんなのが併設されているんですね。

★かつて、世界で初めての核実験が行われた場所は、この国定公園から南に広がる立ち入り禁止の場所。それは1945年7月16日。つまり、広島に原爆を投下する三週間前のことだった。

七十年後の今、日本の自衛隊が毎年ミサイル実験に訪れている。⇒※こちらにもう少し書きます

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