旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

NYCメトロポリタン美術館本館_その2

2021-06-02 17:19:59 | アメリカ東部
2005,2006,2012アメリカ東部の旅より
2005年6月、ニューヨークのど真ん中、メトロポリタン美術館の屋上

セントラルパークのビル群と呼応している。そう考えてつくられた作品なのか、キュレーターが「ここに置いたらおもしろい」と思ったのかはわからない。

でも、ここでなければ成り立たない展示なのは確か。

こういう展示を楽しませてくれる美術館をこそ訪れたいと思う(^.^)
**
エジプトの神殿をまるごともってきてしまうなんて

アメリカでなければできないだろうなぁと思う。

1957年にはじまるアスワンハイダム建設で出現するナセル湖の底に沈む位置にあった建物を救済する国際キャンペーンがきっかけ。
あのアブシンベル神殿がと同じタイミングで世界が尽力して救った建物はエジプト国内で19、上流のスーダンで3。
このデンデュール神殿はそのひとつ。

↑このような姿で湖に沈むのならば、

↑ニューヨークでこんな風に再構築して世界中の人に記憶されてゆく方が、
人類がとるべき良策だったにちがいない。
ここから「世界遺産」の考え方がはじまったのはよく理解できる。
※移築五十周年のページで、THE METがどのようにこの場所を使ってきたかが語られています
周囲に展示されているエジプトの発掘物も興味深い。
カイロとはちがうけれど良質のモノをしっかり解説して展示してある。

紀元前14世紀新王朝時代の女王の顏の一部。

人物は特定されていないが、アケナトンの母か娘かではないかとされる。
つまり、あのツタンカーメンとも近しい人物。厚い唇の雰囲気、似てます。

↑黄色の碧玉。カケラだけれど、女性的な造形と高貴さまで感じさせる。
そのように見えるように展示してある、ということかもしれない。
カイロの博物館にあったらどのぐらい注目されていただろうか。

水晶のライオン↓

↑紀元前3100-2900年、エジプト王朝時代の黎明期にこんなライオンが像が彫られていた。

水晶は割れやすいので彫刻素材としては難しい。
ライオンの姿を単純化しつつリアルに見せてくれて、見飽きない。

カイロのような巨大彫刻もミイラ群もないけれど、The METのエジプト展示は他の美術館のエジプト展示ではみたことがない。

***
ゴッホの「アイリス」もあった

このアイリスの背景は白、ですよね?
しかし…
ゴッホは1890年の日記に「背景がピンクのアイリスの絵を画いた」と書いており、それがこの作品だと解説版にあった。
紫の花との色の対比を考え、補色の実験をしていた。
描かれてから百年以上が経過し、そのピンク色は実質的に白になってしまっている。
だとすれば、この絵を初めて目にして「すごくきれいな色」と感じたとしても、それはゴッホがはじめから意図したものでは、ない。
優れた表現作品というのは、絵画でもその他何でも、製作者の意図したことを越えた評価を得るようになるものだと思う。
この場合、褪色しても作品の価値は落ちていない。

この作品はゴッホの死後、その母によってずっと所有されていた。


「ひまわり」もある↑※ロンドンやミュンヘンにあるものとは別の形状のもの
すぐに思い出したのは↓オランダの「クレラー・ミュラー美術館」にある似た構図の作品↓

解説版によると似た構図のものは、アムステルダムのゴッホ美術館・ベルン美術館にもあって、「これらはメトロポリタンが所蔵するカンヴァスの準備作品のように見える」と書かれていたが、実際に見てみるとどれもが充分完成作に思える。
前者は豪華な金色の額に入っていて、後者はシンプルな木枠。だがそれは作品の優劣にはならない。
解説版に書かれていたエピソードをもうひとつ。
「ゴーギャンは小さめの二作品を持っていたのだが、南の海(タヒチをさす)への渡航資金のために売ってしまった」

****
ブリューゲルも

ウィーン美術史美術館の「冬の狩人」は、個人的にブリューゲル作品の中で最も好きな一枚だ。
この↑ニューヨークの「収穫」は、同じ「季節シリーズ」として制作されたもの六枚の絵うちの一枚だと解説されていた。
言われてみれば、この二枚には、大きさやその雰囲気に似た雰囲気が感じられる。
季節とそこに生きる人の生活。
「冬の狩人」の、寒くてお腹を減らして帰ってくる狩人と犬。
※ウィーン美術史美術館を訪れた時のブログからごらんいただけます
対照的にこの収穫の風景には、太陽の陽にぬくぬくとした藁の上でひなたぼっこする暖かさが感じられる。

そして、この絵でいちばん驚かされたのは、背景の巧みな描かれ方。
そこだけ拡大したのが写真上、これだけで見るべき一枚の風景画になっている。
ダ・ヴィンチの絵の背景は巧みではあっても、それだけでこんな一枚の絵にはならないように思う。

*****細かく書ききれないので以下にダイジェストを、次回訪れる時(いつ?)まで
ミロが二十代のころの作品。後年の作品と違う?似てる?

ロダン制作のマーラー頭部。神経質そうな指揮者の表情。

ジャコメッティが兄弟が飼っていた猫を

レンブラント

セザンヌの初期作品

アクション・ペインティングのポラック

ニュージーランドセクション

「デラウェア川を渡るワシントン」は、独立戦争時のエピソード。18世紀の歴史らしい雰囲気。


光琳の「八つ橋図屏風」は根津美術館所蔵の国宝「燕子花図屏風」と同様の完成度。日本にあったらこれも国宝指定されていたことだろう。



こちらはイサム・ノグチの作品

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NYCメトロポリタン美術館本館

2021-06-01 06:57:07 | アメリカ東部
2005、2006、2012アメリカ東海岸の旅より
別館「ザ・クロイスターズ」のきっかけをつくった彫刻家Georgy Grey Bernardの若き日の代表作「The Struggle of the Two Natures in Man」が展示されている↓
2006
※1894年三十歳の時パリで完成・公開したもの。ロダンの影響をつよく感じさせる。
当時ロダンは五十代半ば。会っていただろうし、影響をうけないでいられる彫刻家などいなかっただろう。
2005
ベルナルドが五年後にアメリカにもどってニューヨークで活動したのは良い選択だったように思える。

当時はこの本館が出来て三十年も経っていない。
美術館が意欲的に作品を収集していく中で彼の作品が冒頭の写真のような展示場所を得られたのだから。

美術品の価値の半分はその展示環境にあると納得させてくれる。

そのいちばん良い例が、別館「ザ・クロイスターズ」である。
※訪問した時のブログをこちらからごらんください


収蔵作品はニューヨークのマンションを飾っていた↑アールデコのガラスまで幅広い


アジアの遺跡からの彫刻も群を抜く美しさ

現地で見るよりも美しさが迫ってくるライティング
**

ルーベンス先妻に先立たれたのち五十五歳の時に十六歳のヘレナと結婚。
ルーベンスは「工房作」が多いが↑これはたしかに本人が画いたのだろう
六十の時に授かった息子と三人の家族肖像なのだから。
***
The METの所蔵品のなかでも指折りに古い紀元前28,29世紀ごろとされる、ギリシャはキクラデス諸島の「ハープ奏者」

奏者の表情としぐさに音が聴こえてくるようではないか。

普遍的な表現は軽々と時代を飛び越える。
****


ギリシャ・ローマの彫刻セクション

この「三美神」をみて↑
↓イタリアはシエナ大聖堂のピッコローミニ図書館に置かれた同じテーマの発掘品を思い出した

↑「三美神」はギリシャ・ローマ時代に人気ですごい数がつくられたが、
ルネサンス期にも発掘されたモノがこぞって収集されていたのだ。
*****

アングルの弟子ジロデが画いたナポレオンのそばに

ジロデが裸体モデルに同じポーズをとらせて画いたとされるデッサンがあった↑
******
2012年の12月に訪れた時に解説してもらっていちばん印象に残ったのは「マダムX」の肖像

↑この左右のビフォー・アフター、わかりますでしょうか?
※今ならありえない描き直しについてこちらに書きました

The METはルーブルや大英博物館と比べても遜色ない、魅惑の百科事典のような場所。
主要なモノだけでも全部見るなんて無理。
まだまだ撮っていた作品があるので、また別に書きます。
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メトロポリタン美術館別館ザ・クロイスターズ

2021-05-30 11:30:48 | アメリカ東部
2006アメリカ東海岸の旅よりマンハッタン島のいちばん北にこんな「修道院」があるとは

いや、これはメトロポリタン美術館の別館「クロイスターズ=修道院の回廊中庭」。

20世紀の初めごろ、困窮して朽ちようとしていた南仏からスペインにかけての修道院四か所を買い取り、そこから運ばせたコレクションがここに再構成されている。
↑この塔は南仏とスペインにある修道院の塔をモデルにしている

↑なるほど似ている。
これら廃墟となっていた修道院から運ばれたモノをメインに収蔵しているのだ。

集めたのはGeorgy Grey Barnard(1863-1938)という彫刻家。
ロックフェラーJr.は1917年に取得していた土地を、1935年からこれらの修道院コレクションを再現するために使う事にしたのだ。

こういった柱頭の彫刻は、これだけを展示しても修道院の回廊を見たことのない多くのアメリカ人たちには理解できない。
それでこれだけ大掛かりな再現展示をしたのだ。

中世ロマネスクの彫刻は↑それが何を表しているのかよくわかっていないものも多いが、後のルネサンスの優美さとは違う魅力がある。

↑上の写真の回廊は柱はホンモノだが回廊はそれに合わせて場所を再現してある。
これは建設当時のモノクロ写真。
★こちら美術館のサイト内にある動画リンクで、ロックフェラーがどのようにこの土地を手に入れ(02:50あたりから)、修道院がもともとどのような場所にあったのか(12:45あたりから)、詳しく解説されています。


↑ここも展示室だが↑1175-1200年ごろのロマネスク様式の教会そのもの↑
スペインはマドリッドの北150㎞ほどのフエンティドゥエーニャにあった教会をそっくり解体し、
三千三百個のパーツをここでまた組みなおした。
だから「ホンモノ」と言ってよいかもしれない。

壁に直接えがかれたフレスコ画は↑こんなふうに壁ごと切り取って博物館に置かれることがおおい↑

↑こちらはゴシック様式の礼拝堂↑窓はフランスのものだが、
他に南オーストリアやスペインから同じ十四世紀の礼拝堂からもってきたものを組み合わせてひとつにしている。
***

ロックフェラーJr.がばらばらになっていたシリーズを買って同時にみられるようにしたという「ユニコーン・タピスリー」。
※パリにある「一角獣と貴婦人」を思い出す
15世紀半ばから16世紀に製作されたものと推察されている。


スペインの教会の向こうにハドソン川が流れている↑

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マイルス・デイヴィス、野口英世などが眠る~ウッドローン墓地

2021-05-29 06:41:20 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅よりマンハッタンの北、ブロンクスにある広大なウッドローン墓地。

ジャズの音楽家たちの墓があつまっている一角。

●イリノイ・ジャケーはマイルスより四歳年上なだけなのに、その熱くブロウするスタイルはずいぶん古典的に聴こえる。

ジャズ・ミュージシャンの墓がこのあたりに集まることになったのは●デューク・エリントンの近くだからではないかしらん。
本人の墓は一族の中に、ごくシンプルにプレートだけがおかれている↑

1863年から現在まで三十万人が埋葬されている。

ぱっと見て↑エジプトのフィラエ島にある「トラヤヌス帝のキオスク」そっくり
←2006年小松撮影
調べてみると、この墓は●Jules Bache1861-1944という人物のものだった。
ユダヤ系で十代から株の仲買人として働きはじめ、メリル・リンチに次ぐ資産を築いた。
その資産で数多くのヨーロッパ古典絵画を買い集め、それらは今NYのメトロポリタンとシカゴの目玉となっている。
自分の墓は1916年からデザインをはじめたのだそうな。
エジプトの旅でずいぶん印象に残ったのでしょう。

●野口英世1876-1928はロックフェラー財団の後援によってアフリカで黄熱病研究をしている時に亡くなった。

遺体はロックフェラーの指示によりアメリカに飛行機で移送され、ここに葬られた。

2018年にメキシコのメリダでも野口英世の像をみたっけ※こちらからごらんください

●高峰譲吉1854-1922

富山・高岡の出身でタカジアスターゼ、アドレナリンの発見者。
現第一三共製薬、元三共製薬の初代社長。
野口より二十歳以上年長だが共に在米日本人の地位向上のために尽力していた。
NYの「さくらパーク」はロックフェラーが土地を提供し、高峰譲吉らの日本人倶楽部が協力した。

廟の中には富士山と桜のステンドグラスが飾られていた。
故国から遠く離れたて生きた人ほど、ずっと故国を心にかけているのである。


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アッパーマンハッタンをめぐるり、ハーレムの音楽ミサに出席

2021-05-28 09:47:36 | アメリカ東部
2006年、アメリカ東海岸の旅より

セントラルパークの「ストロベリー・フィールズ」↑

すぐ近くにジョン・レノンが住んだダコタ・ハウス↑彼が撃たれた入口付近。
72丁目にあるこのマンションは1884年に完成した当時、アメリカの「ダコタ準州」みたいに遠いからその名前になったとか。
★マンハッタン島は南端のバッテリーパークからはじまり北上すると○○丁目の数字が増えていく。
ダコタ・ハウスはまだセントラル・パークの西側。
セントラル・パークが終わる110丁目からハーレムと呼ばれる地区。

ハーレムの中心は1860年に開業した「アポロ・シアター」↑のある125丁目↑現在のハコは1913年。
エラ・フィッツジェラルド、ジェームズ・ブラウン、マイケル・ジャクソンもここからキャリアをはじめた「アマチュア・ナイト」は水曜日に開催される。

かつては治安が悪くて、アポロ・シアターのショーを観に行くツアーバスに銃弾が撃たれたことまであったそうだが、今はそんな雰囲気は消え去った。

日曜日の朝、ポップ・アートの絵描きさんが店を出していた。
奥さんは日本人。観光客が買ってくれたTシャツにサイン(^.^)
**

↑CCNY=ニューヨーク・シティ・カレッジは1847年に開校した名門大学↑この建物は1906年。大学がダウンタウン(23丁目)からこの130-140丁目に移転した時に建設された。

学費無料ではじまりユダヤ人子弟やヒスパニックや黒人、アジア人の方が白人よりも多い。
ハーバードなどのアイビーリーグに対抗する存在。
創立者は初代日本公使を務めたタウンゼント・ハリス。


初代財務長官ハミルトンの家↑はもともとここにあったのではなくトレーラーで家ごとここに運んでこられた。

←ハミルトンはこの10ドル札の人物

マンハッタン島の北部、モリス・マウントと呼ばれた高台のこの家はイギリスと大陸植民地軍双方が使った家。

モリソンージュメル・マンションが建てられたのはまだ英国領だった1765年。
当時住んでいたのはロジャー・モリス大佐とその家族。
135エーカーの敷地がハドソン川まで続く農園だった。
1776年9月、後にアメリカ建国へと導く反乱が起きてモリスは退去し、代わってワシントンがここを大陸植民地軍の司令部にした。
9月16日襲ってきたイギリス軍五千人に対し千八百人の大陸軍が勝利。

↑上の古地図でいちばん右にワシントン、モリスの名前とこの家が画かれている。

ハーレム川を渡り、ブロンクス地区のヤンキースタジアムへ

ちょうど松井がヤンキースで活躍していた時代だった。

**
117丁目のハーレムまで戻り、教会ミサに出席しよう。

劇場のような建物。観光客や白人は二階席へ

下の階はすでに信徒たちが着席し、軽く演奏がはじまっている。

牧師の他に、タンバリンを持った女性が歩き回って鼓舞している。

イントロ?の説教と音楽がもりあがり…

白づくめのコーラス隊が入場!

厚い歌声がいっきにホールを満たす。
観客も立ち上がり、いっしよに歌っている。
※ごいっしょした方にいただいた動画をこちらからご覧ください

二階の我々観光客も総立ち!
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