旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アフロディーテの神域からパフォスへ

2015-11-26 11:43:27 | キプロス

目覚めてベランダをみるコロンビアリゾートはたしかに特別な場所と感じさせてくれる。


***今日は西海岸のパフォスを目指す。

 


途中、巨大な石が目をひく「ペテロ・トゥ・ロミウ」に停車。

ややこしい名前だけれど、「ロミオの島」という意味。おととい見たペンダ・ダクティロの投げられた山のかけらがここにとんできたとの伝説。恋する男が投げた岩だ、というわけであります。⇒こちらの日記に書いております


 


アフロディーテの神域


 


キプロスは「アフロディーテの島」と言われている。伝説ではアフロディーテがながれついた海岸がこのあたりだという。ボッティチェリがえがいたところの絵を思い出すひとも多いだろう


 


古代のアフロディーテの神域を見学。現在は目に留まるような建物は何一つ残っていないが、古代には重要な神殿がたくさんあった。キリスト教時代に使用されなくなり、中世には砂糖工場に使われた建物もあり、変遷をたどる


 


復元された建物博物館にその「ご神体」が置かれている。この黒い石がそれ緑色の火成岩。古代ローマでも町の中心の神殿には「ピエトラ・ニグラ」と呼ばれた大事な黒い石が置かれていたそうだし、ここでもこの石が大事な役割をもたされていたと思われる。


 


こぶりな博物館 いちばんおもしろいのは2007年に発見されたばかりのこの石棺


 


このおもしろい絵はなんでしょ?ホメロスの「オデッセイウス」を知っていればぴんっとくるはず。


 



 ギリシャ神話★トロイからの帰路、キュクロプスという一つ目巨人につかまってしまったオデッセイウス一行は、巨人を酒に酔わせて、その一つしかない目を潰す。そのうえで、見つからないように羊のお腹にしがみついて脱出した。


なるほど、一つ目巨人の目が赤く血に染まっております。


 紀元前五世紀前半のものと思われる石棺に、今の我々が見てもすぐにそれと分かる同じ主題が描かれている。ホメロスってすごい物語作者だ。


もうひとつ、すぐ東に位置するパレパフォスの遺跡からみつかったというモザイクも有名。これはレプリカだがこの「見返りお尻」をみて、すぐに思い出したのは、シチリアのピアッツァアルメリーナにあるモザイク⇒ほぼ同時代の紀元後二世紀から三世紀。なんだか雰囲気が似てませんでしょうか?


 


***カシカス村のヴァジリコンワイナリー見学


 


パフォスからしばらく内陸に入り、標高650mと少し高くなったところにこのワイナリーはある。1993年からこの地でワイン造りをしている。近郊の農家からも買うがほとんどが自社の畑のブドウを使っているのだそうだ。年間40万ボトルを生産するというからそこそこ大きなワイナリーである。白はシニステリというキプロス固有品種を中心に、ロゼはシラーなど、赤はメルロー、カベルネ・ソーヴィニョンなど。


 


工場を見学させてもらう。上層階で絞った汁を下層階でステンレス製の発行缶に流し込む、その下の階でボトリングや樽詰めをするという、重力をうまく使った構造のたてものだ。


 


これはボトリングの機械⇒「絞り機はドイツ製、イタリアのボトリング機械、そしてフランスの樽を使うっているのよ」「これまでは出来るだけフレッシュなうちに飲んでもらうワインとすくっていたのだけれど、数年前からこの樽で熟成させてもっと年月に耐えられる赤ワインにも力を入れていると言っていたまだまだこれからのびていきそうなワイナリーであります。


 


*****パフォスの街へおりてゆく


 


途中にバナナがたくさんなっている


 


***Thomb of Kings王家の墓*** 


事前に予習していた中で、いちばん見てみたいと思っていた遺跡。 


プトレマイオス朝というから紀元前四世紀ごろからの墓だとされる、地面の岩を掘りぬいた墓がいくつもあつまっている場所である。


 



 ドーリア式の柱がささえたこの四角い空間を見ると、時代はもっと古いがクレタ島のクノッソス宮殿遺跡をおもいだす。


 キリスト教時代になって礼拝堂に使われていたらしく、柱に「キリスト」というイニシャルが刻まれている柱がある


 こういった墓がいくつもならんでいる、結構広い遺跡群 ううん、も少し時間がほしいところ。


 ****パフォス城がある港****


 


 いかにも中世の城。現在見えるものは港を守る砦としてヴェネチアが建設したもの。大砲が動けるようなスペースが確保されている


 


 この砦は、パフォスの港を挟む突堤の端に建設され、港の入口をふさぐ鎖の一方のとりつけ建物だった。


 


こちらが当時のパフォスの旧市街⇒現在の「考古学公園」はほとんど旧市街の全域を覆っているのわかる。贅沢な発掘待ちの場所。まだまだいろんなものが埋まっているのだろう。


 


昼食は港に面したおーぷんエアのレストランで、お魚いただきます



★さて、「考古学公園」遺跡に入場すると、思っていた以上に見どころが分散しているのが分かった。


見どころである床モザイクは、それぞれが当時のいくつもの邸宅だった場所。いちばん有名な「ディオニシオスの家」だけ訪れる。この写真で左端に写っている建物それ⇒内部はこんな風に実際の発掘床そのままの場所で見ることが出来る 博物館で見せられるよりも、もともとあったこの場所で見ることで、よりその状況が理解できる。

モザイクは秀逸!そして、ストーリーが分かるとなお面白い。幸い登場人物の名前が画かれているので分かりやすい。
ピラモスとシスベ~「ロミオとジュリエット」のもとになったギリシャ神話。

ギリシャ神話★二人は壁を隔てた隣どうしに住んでいたが、両家はとても仲が悪く愛し合う二人がみとめられるチャンスはなかった。 


思い余って駆け落ちし、泉のそばで出会う合うことになったが、シスベがその場所へやってくると、獲物を食べ終わったばかりで口から血を流したライオンが水を飲みにやってきた。 あわてて逃げたシスベが落としていったケープをライオンは血の付いた歯でちょっと噛んで置いて去っていった。 遅れてやってきたピラモスは、血のついたケーブを見つけ、シスベがライオンに食べられてしまったものと思い、自殺。 あとから戻ってきてピラモスの死を知ったシスベも後追い自殺する、というお話。


シェークスピアはこの話を直接ではなく、パリでこの話をもとに書かれた別のストーリーを参考にしたといわれている。いずれにしても、大元はこのギリシャ神話だったのであります。


●ディオニソスとイカリオス



酒の神ディオニソスを厚くもてなした牛飼いイカリオスは、お礼に葡萄酒の作り方を伝授される。 イカリオスは牧童たちに人類初めてのワインを飲ませたのだが、「酔っ払う」という経験のなかった牧童たちはイカリオスに毒をのまされたと思ってイカリオスを殺してしまう。ディオニソスのとなりで酔っ払っている女性はイカリオスの娘かしらん?※後のストーリーで登場するのですが省略


キプロス固有の角のある羊、ムフロンが描かれてる。いきいきと。



★ニコシアの考古学博物館には、このモザイクの床下から見つかった銀貨2428枚のうち一部が展示してあったっけ⇒こちらに書きました


 


少し離れた所に、キリスト教徒が必ず訪れる遺跡・教会がある****


聖パオロが鞭打たれた教会↴


 


廃墟になっててしまったのは、8世紀になってやってきたイスラム教のウマイヤ朝が破壊したから。現在ある教会はその跡に建設されたもの。上の写真左手前に写っている写真にはアラビア語が刻まれているのだそうだが、見つけられなかった。


←この何の変哲もない手前左に見える柱が、パオロがつながれて鞭打たれた柱とされている。この時ペテロを鞭打ったセルギウス・パウルスリストは、後にキリスト教に改宗したので、パフォスは歴史上はじめてキリスト教徒の支配者をもつ町になったとされているのである。


・・・本日は、宿泊しているコロンビア・ビーチリゾートでの食事、楽しみです(^.^)

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トロードス山中のホテルとオモドス村の食事

2015-11-25 14:28:34 | キプロス

トロードス山中のホテルには、暑い地中海岸を離れて、昔から避暑の客が多く訪れていた。そんなホテルを二つ訪ねた。

このヘルベチアホテル創業三代目にしてキプロスで現在営業しているホテルの中で一番古いのだとか。山を歩く滞在客のためにストックも完備 いごこちのよいリビングエリアには古い松の木がにょっきり生えている⇒その向こうのテラスで豪快にスブラキ(串焼き肉)を用意してくださっていた。

新鮮な野菜と共にこういう肉料理がこのあたりらしい料理だといえるかもしれない。たくさんのにゃんちゃんもおります ハルミチーズも焼いておいしく 小規模なホテルだが、家族で暖かく迎えてくれて居心地がよい。

**もうひとつ、今度はフォレストパークという歴史的有名人も滞在したホテルを訪れるこちらは広い庭も併せ持つ。バーエリアにかかげられているこの旗は、ここに二度滞在した20世紀前半のエジプト国王ファルーク一世のものある有名な人物のものイスラム教徒の彼禁酒のはずなのだが、実際には大酒飲み。人前でアイスティーのように見えるカクテルをつくってもらい、愛飲していたのだそうだこの「エジプト国王のアイスティー」については⇒こちらに書きました。

 

***日暮れてきて到着したオモドス村はとても雰囲気がよい。 細い路地を歩いて古いワイン醸造所でワインの試飲会をする四種類も試させていただいたが、写真で一番左にうつっているリースリングの白が微炭酸でおいしうございました。購入。 レストランでは、キプロス・ギリシャ料理の前菜にかかせない「ザンジキ」というヨーグルト料理を実演してくれた。 ●「ザンジキ」の作り方~ キュウリを切ったら一時間ほど塩をつけて待つ。 ガーリック、ドライミント、胡椒、レモンジュースを少し硬めのヨーグルトに混ぜる いろいろなものにつけていただきます。

この赤いのはビーツ ハルミチーズももちろん焼いて 今回の旅、屈指のおいしいキプロス料理でありました。

バスで一時間ほど走って、海岸のホテルに到着。暗くて今いったいどんなところにいるのか、よくわかっておりません。 なんでも「隠れリート」なのだそうな。明日の朝が楽しみ(^^)おやすみなさい(-_-)zzz

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トロードスの修道院群

2015-11-25 10:22:45 | キプロス

滞在四日目の朝、ニコシアを離れる前に、週二回の朝市を訪れる。早朝のさわやかな青空の下、城壁のすぐそばに生鮮品の市場がひらいている

 

キプロス名産の「コロカシ」と呼ばれるおいしいじゃがいもが積み上げられている↴

市場の風景はどこも似ているが、モスクの尖塔がむこうに見えるのがニコシアらしい。きのうバスからこれが見えた時に「1570年にトルコ軍が最初にニコシアの城壁を突破した場所を記念してつくられたバイラクタルモスクです」と解説されていたっけ。 ギリシャ系・南ニコシアのど真ん中にあっても壊されずに手入れされている⇒

手づくりのオリーブソーセージはキプロスではよく赤ワインにつける⇒ 新鮮でおいしいイチジクはすぐに食べよう⇒

 

** ニコシアから西へ、トロードス山系へむかう。最高峰二千メートルほどの山脈。ここにビザンチン時代からトルコ支配時代をも生き延びて残る礼拝堂や修道院がいくつもあって、世界遺産にも指定されている。

 最初はアシヌウ教会こういう場所はいつでも「ネットのタイムテーブルで開いている時間に訪れる」というわけにはいかない。今日も手前五キロほどのところにある村にいる管理人さんを途中でのせて現地へ向かった。 11世紀末から12世紀はじめにかけてつくられたロマネスクのアプス(後陣) 何度も修復をしているが、オリジナルと思われる小さな窓かつてはここに薄いアラアバスター石がガラスのかわりに入っていたのかもしれない。 横から見ると、百年後に増設されたというナルテクス(前室)部分がよくわかる。屋根は16世紀以降に保護のために付け加えられた。簡素な外観だが中はいちめんのフレスコ画でおおわれているこのてのフレスコ画で描かれる主題はどこも似ているが、この教会の縁起を描いた部分がおもしろい。 創立者のニキフォロス・マギストロス・イスヒロス(イスキリオス)というビザンチン時代の高官が、聖母マリアと通じてキリストにこの教会を捧げている図である↴ この人物は1105年に娘のイエヒラを亡くした事をきっかけに修道士になりニコラスと名をかえた。それ以前に自分が創立に援助したこの修道院に移り住み、十年後に亡くなったのだそうだ。

ニキフォロスの後ろに立つ女性は娘のイエヒラか、妻と説明してあるものもあった。

ニキフォロスは12世紀の人だが、今見えているフレスコ画が描かれたのは14世紀。古いものとそっくりに描きなおしたと考えれている。しっくいの下には多分オリジナル12世紀はじめの絵が隠されているのではないだろうか。別の剥がれた壁の下から古いフレスコ画がのぞいている部分があったから。

今はこの礼拝堂がぽつんと残されているだけだが、かつてはまわりに修道院の建物があっただろうと想像される。

ビザンチン時代の高官が残したこういう教会は、イスタンブルに残るコーラ教会が思い出される⇒こちらに小松が書いたものがあります

***

聖ニコラス教会

ここもまた後年にかけられた屋根が印象的なので、通称「スラーギ(屋根の)教会」と呼ばれている

屋根がかけられる以前の丸いドームが間から少しみえる オリジナルの窓の飾り石 内部にはアシヌウと同時期14世紀のフレスコ画があるが、やはり12世紀ごろのものに上塗りしていて、一部はとりのぞいて12世紀のものが見られる。

*****山並みを抜けて走っていく時、遠くに1974年の慰霊十字架がみえた

キッコス修道院

標高1300メートルに位置する。現在でもここには十数人だが修道士がおり、修道院として活動している。キプロスでも大きく権威ある修道院である。

 

★伝説:1092年、ビザンチンの高官マヌエル・ブトミティスが道に迷い、イザヤという修道士に道を尋ねた。 しかし無言の行を行っていた修道士はなにも答えない。怒ったマヌエルはイザヤをとらえるが、その後体調が悪くなってしまう。あげくに、イザヤに助けられてしまって改心。当時の皇帝アレクシウス・コムネノスのところへもつれてゆき、修道士イザヤは皇帝の娘の病も無事治癒させる。 お礼に何がよいかと問われ、十二使徒のひとりであるルカが描いた聖母子の絵を所望して、それをこのキッコス修道院にもたらした。

この話を描いた連作フレスコ画が回廊に描かれている。そのひとつが、これ⇒ 1365年、1541年、1751年、1813年と四回も大火にみまわれたが、聖ルカが描いたという聖母子の絵は、今も聖堂のイコノスタシスに飾られている。※常に布がかけられているので見る事は出来ない

他にも1997年に起きた南北の悲劇の際に涙を流したといわれる聖母子の絵がある(こちらは公開)。 

同じ正教徒のロシア人もかならず訪れる場所ということで、お土産物もたくさん。タイムのはちみつは最高級、と言われて試してみると、たしかに美味しかったので購入⇒ バラの香りを上流濃縮したローズ・ウォーター⇒ 甘いコマンダリア・ワイン⇒ ポルトガルのポルトワインに似ている。「コマンダリア」とは、「コマンダー(司令官)」のワインという意味で、つまりはヨハネ騎士団の領有する土地でつくられたことからそう呼ばれる。

***つづいて、トロードスの山にあるホテルと村をいくつか訪問します

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南ニコシア~その2

2015-11-24 18:07:31 | キプロス

トルコ人地区である北ニコシアに、かつてのニコシア大聖堂がある現在、南ニコシアの主要な教会は聖ヨハネ教会となっている。
この教会がある場所は、ルジニャン王朝時代には「聖ヨハネービビ」と呼ばれた古い教会が、ベネディクト派の修道院と共にあったとされる。この変わった名前はアラビア語の「ハビビ」=「愛されし者」という意味からきている。つまり、キリストに愛された福音者ヨハネの為の教会であったということを意味している。

現在見られる教会は、ヴェネチア時代の1662年になって建設されたもの。内部に残るフレスコ画は1730年頃に描かれたと伝わる(撮影禁止)。目立つ鐘楼は19世紀1858年に付設。

この教会の面白いのは、教会そのものではなく、すぐ横が大統領宮殿になっているという事。歴代の南ニコシアを代表する人物は政治的にも宗教的にもこの教会の大司教だったのである。

官邸の前に置かれた白い大理石像は、それほど古い人物ではない。1974年のクーデター発生時に住んでいたマカリオス三世であるキプロスの分断はトルコ軍の侵攻によって始まったのではなく、南キプロスの過激派がギリシャへの併合を求めてこの宮殿を襲ったことがはじまりだった。なんと、この宮殿前に大砲を据えて撃ち込むようなことまでした。

近づいてよく見ると、修復された弾丸の跡が無数にこのされているのが見える。※マカリオス三世の大理石像の後ろに見える建物の修復状況をごらんください

襲われたマカリオス三世はしばらくは行方が分からなかった。クーデター過激派は「マカリオスは死んだ」と声明を発表した。が、実は彼は裏口から逃げ、通りかかったトラックにひろってもらい、西海岸のパフォスまで逃げる事に成功していたのである。

マカリオス三世が「私は生きている」とラジオに登場すると、消沈していた民衆は勇気を得た。

当時ギリシャ本国の軍事政権と軍は、キプロスを手に入れるためクーデター過激派を助けに介入しようとしたが、なんと、アテネの武器庫はからっぽ! あるはずの武器が汚職によって横流しされてしまっていたのである。この失態によって、軍事政権は失脚崩壊してしまう。

キプロスの過激派=ギリシャへの併合派が企てたクーデターもこれで失敗した。

しかし、この事態を受けてトルコ系住民は身の危険を感じ、海峡の向こうのトルコ本国に救いを求め、トルコ軍の侵攻がはじまった。

クーデターの発生は7月15日、トルコ軍の介入は7月20日である。

この事態に駐屯していたイギリス軍はどうしていたのか?
何もしなかったのである。つまり、トルコ軍の侵攻は裏で合意された予定事項であったと推測されているのだ。

「キプロスがギリシャ系とトルコ系が対立している島というのは、イギリスやアメリカが自分たちの都合の良いように利用して、そうなってしまっているんだ」と、今回同行してくれたキプロス人は言った。
**
建物前に置いてあった大統領の専用車、「大司教」を意味するアルファベット略号AKだけが入っている

****午後、今回の視察を企画したロンドン在住のキプロス人スタッフが、ご自分の両親の家に招待してくださった。昼間からぶどうの搾りかすをつかった蒸留酒ズィヴァニアをふるまっていただいた25から40度もあるが、地元の方々は、くいっくい飲んでしまいます。

*****
ニコシアの考古学博物館へ
この建物はもともとヴィクトリア女王記念館として建てられた
ふるびた建物だが、キプロスの豊かな古代史を感じさせる発掘物がたくさん収蔵されている。
初日に空港のビルに入った途端に見た絵のヴィーナスの石像もここにある⇒

★南キプロスの1ユーロコインに使われているソープ・ストーンとよばれる玉石でつくられた神像も
上右、コインに書かれた言葉が二つ。
左側にはキリシャアルファベットだが「キプロス」と読める。もうひとつ右側KIBRISとは?
これは、トルコ語でキプロスを意味する言葉。
ギリシャ、トルコ、両民族共にキプロス国民であることを、ユーロコインでも表してるのだ。

圧倒的な土偶が並んだ一角に足を止めさせられる 中国の兵馬俑を思い出させる巨大な兵士もいる
解説によると、現在北キプロスに属するアギャ・イリニ海岸で見つかった紀元前11世紀からに遡る神域からの出土品。

二千体も発見されたが、女性像はたった二体だけ。戦いの神だったのかもしれないと推察されている。
半分はスェーデンの博物館にあるとのこと。1929年に発掘したのがスェーデン隊であったゆえ。

・・・1924年にエジプトで発見されたツタンカーメン王墓からのものは、国外への持ち出しは許されなかったのに…ここでは当時の主権者だったイギリスが許可した、ということになろう。

*****
セプティミス・セヴェルスのブロンズ像首のところに付け替えられた跡がみられる。当時はよくある方法だった。身体と顔のバランスがどうしてもわるくなるのはそのせいか。

******
夕食はリドラ通りにある、北への検問所すぐ近くのれすとらん。カジュアルだがアメリカのクリントン大統領も訪れたというお店にて。名産ハルミチーズのフライ⇒ 
ひっそりと平和な、夜の北ニコシアへの検問所である

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南ニコシア~その1

2015-11-24 10:30:50 | キプロス

キプロス視察三日目 南ニコシアをめぐる一日。 城壁外のホテルから、いよいよニコシアの星型をした城壁のそばを通る。このあたりは、「マルティネンゴ城壁」と呼ばれるのだそうだ。マルティネンゴとはロードス島の城壁を補強した築城技師の名前と同じ。しかし、ロードス島が陥落したのは1523年1月1日だから、この城壁を同じ人物が補修したと考えるには年月が離れすぎている。たぶん、その息子か孫が手掛けたと考えるのが妥当だろう。

朝一番で伺った、旧市街の繁華街すぐの場所にあるホテルで出された焼きたてのペイストリーがいたくおいしかった。

 とくにオリーブ入りのは絶品さらに、蜂蜜を挟んで焼いたこれ中の蜂蜜が焼けて濃縮されている。 朝ごはんを美味しく食べて町歩き、いいですね。 クッキング体験もさせてもらえるとか。2016年の《手造の旅》での滞在を考えてみましょう(^^)。

元市長の家が★レヴェンティス博物館となっている。きれいでわかりやすい展示。入ってすぐのところにニコシアの模型とこんな地図この形の都市、もうひとつ同じものがある⇒こちらに書きました。

ヴェネチアからルジニャン家に輿入れしてキプロス王国をヴェネチアに併合させる役割をしたカテリーナ・コルナロの肖像⇒これはフィレンツェにあるティッツィアーノが1542年に描いたものの複製だが、よくできている。※カタリーナ・コルナロは1510年に五十五歳で亡くなっているので、ティッツィアーノも誰かの描いた絵をモデルにしたのだろう。実際にカタリーナが生存中に本人を目の前にして描かれたものは、1500年四十五歳ごろのカタリーナをジェンティーレ・ベッリーニが描いたもの⇒ブダペストにあるものをこちらからごらんいただけます

**

ニコシアの銀座通りにあたるリドラ通りを歩くと、通りは北ニコシアへの検問所に突き当たる。

ここには2007年3月にオープンした。それまでは「ニコシアの壁」と呼ばれる高さ五メートルのコンクリート壁が分断して北側は見通せなかった場所。 今はこの写真のように、北側がずっと見通せるし、観光客だけでなく、市民も身分証明書を見せるだけで南北を行き来している。 かつてのベルリンの壁や現代の南北朝鮮を隔てる板門店を想像してゆくと拍子抜けする気楽な光景。 北のトルコ系と南のギリシャ系がこれだけ融合してきているとは、予期しなかった平和な進展。 世界が宗教や民族で分断されていく傾向が強い中、喜ばしく、注目すべき場所だと思う。

今回、北ニコシア側には行かない日程で、ちょっと残念。 リドラ通り沿い手前にあった百貨店上層階展望台から北側が見晴らせる展望台になっているときいて、登ってみることにした。次のの写真で、リドラ通りを覆う三角のテントの間から高く見下ろすのっぽのビルの一番上が有料展望台である⇒

そして、眺めは抜群↴

向こうの山肌に見えているのは、トルコ国旗とその赤白を入れ替えた北キプロスの旗。 モスクのミナレットがたくさんあるのがトルコ側らしい。右の方に見えているひときわ大きな二本のミナレットは、かつての聖ソフィア大聖堂がモスクに改造されて敷設されたものである。キプロス王としての戴冠はあの大聖堂で行われていたのだから、パリでいえばノートルダムにあたる場所だ。 その他にもトルコが帝国内に機能的に配置したキャラバンサライの跡⇔(※これは展望台に設置してあった説明機械より)など、なかなか興味深い場所があることが分かる。 南のガイドは北ではガイドできないので、個人で南を訪れた日本人は、北をガイド付きでまわるのがなかなかむずかしようだが、2016《手造の旅》では北ニコシアの徒歩観光を是非組み込むことにしよう。

 

 

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