旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ジャイプールのシティ・パレスと付属日時計「ジャンタル・マンタル」

2020-05-17 13:33:29 | インド
2005年《手造の旅》インドより
この建造物は何?

言われないとこれが日時計であることさえ分からない
↓この頂点の影が、上の写真で下から上に湾曲して伸びている腕の部分に映り、時間を測っていた。
↓※右の奥に見える階段状の建物がマハラジャの王宮「シティ・パレス」

この「腕」の部分にはよく見ると細かく分毎の刻みが入っている

急な階段も併設されている

広い敷地にはこんなタイプの日時計もある

↓真ん中に棒がついていたのでしょうね

この日時計群はアンベール国王ジャイ・シング二世が天体観測にも強い興味をもっていたことから
王宮をジャイプール市内に移したのを機に1724から建設はじまった。日本なら八代将軍吉宗の頃。


★シティ・パレスはマハラジャの住まいとして現代インドが成立するまで使われていた。

イギリス支配がどんどん強まっていく時期だが伝統の装飾スタイルが圧倒的。



特にこの「孔雀の門」は他にみたことがない


この巨大な壺も他にはない↓
↓いったい何を入れていたのか?

ギネスブックにものっている★世界最大の純銀製壺
重さ345㎏、高さ1.61m、直径4.3m、900ℓ入。

1902年にマハラジャだったマードー・シング二世はイギリスを訪問した。
一年近くにもなるその旅に、ガンジス川の聖なる水を持ち運んでいたのである。

マードー・シング二世は貴族の出自ではあったが王族ではない。
若くして父が没した際、兄との相続争いに敗れ出奔。
他国の傭兵のようなことまでして生き延びていた。
アンベール王国のマハラジャが死の床で彼を養子にし、19才の若さで王位についた人物。
当時完全に英国の支配下にあったインド、
積極的にイギリススタイルを実践していたのだろう。
ポロをするこんな写真が展示されていた↓

それでも、ヒンズー教徒だった彼はイギリスへの旅にガンジス川の水は欠かせないと思ったのか。





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ハワマハル(風の宮殿)

2020-05-15 22:10:12 | インド
2005年《手造の旅》インドより
個人的にはインドでいちばん好きな建築

「似たような建築」というのが他にみあたらない、独自のデザイン感覚が貫かれている。
十五メートル程の高さで五階建てだが上層部になると厚みがほとんどない。
裏へまわって「シティ・パレス」側から中へ入っていこう。

↓裏からみたところ。この向こう側に、先ほど道路側から見た屏風のようなピンク色の建物がある。

↓冒頭の建物の上部だけを裏側からクローズアップ

上の二階部分は、ほとんど人ひとりが歩けるかどうかの厚みしかないのがわかる。
何故こんな建物が建てられたのか?

ここは外に出ることが許されない女性たちが街の様子を見るための場所としてつくられた。
ジャイプールの「シティ・パレス」とは、当時のアンベール王国のマハ(大きな)ラジャ(王)の住居だった。
★アンベール王国は12世紀ごろからの国だがムガール帝国が強力な時期にはその朝貢国になり、19世紀にはイギリスの支配下にある藩国として1947年に現代インドに参加するまで独立を保っていた。
後宮には多くの女性たちが住んでいたが外へ出ることが許されない。
彼女たちが外からその姿を見られることなく、街を見ることが出来る場所としてハワ・マハールは1799年に建設された。

当時は絨毯でも敷かれてそこに座って見下ろしていたのだろう。
窓が低い位置にあるのはそのため。

街の様子はこんなふうに見えるのか


暑い国では、いかに涼しく快適な空間を出現させるかが常に求められる。
ここは風が吹き抜ける、女性たちが快適に過ごせる空間だったにちがいない。

少し離れて横から見ると構造がよくわかる。

そして、周辺の道路沿いの建物が同じデザインスタイルで統一されているのもすばらしい。

現在の大都市でもそうだが、建築物ひとつが素晴らしいという例はよくある。
総合的に統一されたパリのような美しさを出現させるには、マハラジャのような強力な支配者が必要になる。

現代民主主義国家でどこまで可能なことなのかと思ってしまう。

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ファィプル・シクリ~十四年間だけの首都

2020-05-14 23:11:32 | インド
2005年《手造の旅》インドより
アグラの西四十キロほどに、皇帝の盲信のおかげでできた都があった。

1574-1588の短期間(日本なら「本能寺の変」前後)、ムガール帝国の首都であった。

赤砂岩でできた宮殿への門。
入場料を払って入ると、がらんと抜け殻になった巨大な建物群が姿をあらわす。

↑左奥に見える最も高い「パーンチ(ヒンディ語で「5」の意味)・マハル」はその名前の通り五階建て。
いちばん下の階に84本の柱、二階に56本、三階20本、四階12本、最上階で四本の柱が「チャトリ(天蓋や傘という意味)」と呼ばれる観覧・物見台を構成している。

壁がないが不思議。
実は柱の間にいろいろな布を垂らしてしていたのだそうだ。

なるほど、色とりどりの布がひるがえり、風を通しつつ自由な間仕切りとして機能していた。
この宮殿が美しく飾られていたかつての姿を想像できる。
我々が今見ているものは骨格だけ。そこからかつての姿を想像する目が必要だ。

「パーンチ・マハル」」の前には池ががつくられ、その上に舞台がある↓

舞踊りも行われ、

アクバル帝が観覧していただろう。

★アクバル帝が遷都したのは、ここにイスラム神秘主義の大家サリム・チシティが居たから。
父祖の代から信仰していたこの隠者を、跡継ぎに恵まれなかった皇帝がたよった。
祈ってもらうとすぐに長男を授かった。
産まれた息子には隠者にちなんでサリムと名付けた。※後年のジャハンギル帝の幼名

サリム・チシティは遷都が完了する前に亡くなったが、この宮殿の中にその墓が置かれている。
↓左の壁の向こうに見える丸いドームがそれ

当時は政治も宗教の影響を受けずにはすまない時代だったのである。

アクバル帝が政務も含めた議事を行ったとされるのがこの建物↓

ひときわ精緻な彫刻が施されている

対角線が交差した場所にある中央の柱の上にアクバル帝が坐していたとされる





皇帝の乗り物は象。別の庭の中央に象を繋いでいた石が残されている。




この高台は古くからのイスラム教の寺院がある「シクリ村」だった。アラビア語ので「ありがとう」を意味する「シュクラン」からきた名前になる。遷都にあたり「勝利の」を意味する「ファーティプル」がつけられた。

首都になり立派な宮殿は建てられが、増えた人口をまかなえるだけの水を供給できる立地ではなかったことがわかり、たった十四年で都は再びアグラに戻された。
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インドの格差社会、中国との違い

2020-05-13 21:56:37 | インド
2005年《手造の旅》インドより
アグラのホテルで結婚式に遭遇した

新郎はなんと

白馬に乗って登場した

とにかく賑やか!
結婚式をとことん派手にすることがインドの上層社会では重要なのだ

見ず知らずの外国人の我々だってどんどん招き入れられる。
↓ここは新婦がわの席なのだが…

「お嫁さんがずっと悲しそうな顏しているのよ」
言われてみると、たしかに。
賑やかさこれ以上ないというほどの宴のなかで、その事情は知る由もない。
マドリッドで見たゴヤの「村の結婚式」を思い出した。

**翌朝、我々の出発とおなじころに彼らも出発の様子

新郎新婦の車?いや、パレードに伴奏する車かしらん

ホテルを一歩出るとインド大都市の苛烈な現実がいやでも目にはいってくる

↓これはジャイプールの朝

近くの農村からミルクを売りにきている↑

自分で町をあるくことは必用。
こちらから一歩近づいていけば、言葉はあまり通じなくても理解できることがある。
ツアーで観光地だけをめぐっていては見えてこないインドがたくさんある。

ジャイプールからアグラへの途中の村でストップした時、村の子供たちがやってきた。
大きな瞳で外国人に興味深々。
都市を離れて出会う人々は、観光地でまとわりついてくる物売りとはぜんぜん違う。

制服を着ているから(インドはイギリス支配だったので小学校ぐらいでも制服のある学校が多い)
いわば「一般的な」家庭の子供たちなのだろう。

デリーの渋滞のなかを歩く象

この少年のお父さんも象使いなのだろうな。

インドの貧富の格差は中国のものとは全く違う。
国が発展する事で解消されていかない貧しさだと感じる。

兄が叩く太鼓にあわせて曲芸を見せるこの子はいったいいくつなのだろう。

***
インドでは、
大都市の高層ビルの間で羊を放牧している。
道路の中央分離帯で煮炊きして生活する人がいる↓

はじめて訪れた頃、おどろいて「あれは何ですか?」と指差して訊ねたが、ガイドさんが答えたのはその方向にあったビルの名前だった。
その時にはっきりわかった。
外国人のガイドをやっている階層の人には、地べたを這うように生活している人々が見えていない。
華やかなインド映画で映る街には前述のような人々の姿はない。
透明人間のようにかき消されている。
上層階級の人々にとって彼らはまったく別世界の住人なのだ。

固定された貧困。
それはカーストと深くつながっているのだろう。
インド人なら姓をきいただけで相手の「身分」がわかるという。
日本人にもかつて身分制度と姓につながりがあった時代があったが、現在では姓が固定された貧富のレッテルではない。

貧富が教育の機会を決定する社会。
そこで固定した貧困層が再生産される。

かつての中国は貧しくとも最低限の教育はうけられる社会だった。
それを理想に掲げた国家だった。
だからこの二十年で人件費が飛躍的に上昇し、結果、工場がもっと人件費の安い国に移転していくという皮肉な事態にもなった。
一方、この二十年のインドはどうだったのか。
この先二十年のインドはどうなっていくのだろうか。

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アグラ城

2020-05-12 19:51:52 | インド
2005年《手造の旅》インドより
タージ・マハルからヤムナー川沿いを一キロほど行ったところにかつての王城がある。

デリーの城と同じく真っ赤な石なので同じくレッド・フォートと呼ばれることもある。

当時の入場料は外国人が5US$、インド人は20ルピー(当時は1ルピーが3円弱だった)。
約二十倍か。こういう入場料で国の発展レベルが測れるように思う。
※調べてみると十五年後の2020年現在は約十倍に「縮まって」いた。これはインドが発展したということなのかしらん?

アグラは古代からの要衝でいくつもの王朝がこの地を首都としてきた。
だが、ムガール帝国としては第三代のアクバルが16世紀にこのアグラ城の建設をはじめ、タージマハルを建設した孫のシャー・ジャハンの息子アウラングゼーブが旧都デリーに戻すまで約百年間だけの首都である。

ヨーロッパの城と違って高い建物よりも広い庭の方が印象的

居住空間として快適にしようとしている。

↑中庭に置かれていた巨大な石は何?
ふちのところに文字が刻まれた楕円形が見える。
そこにはペルシャ語でJAHANGIR's HAUZ【ジャハンギル帝のバスタブ】1610(西暦に換算)と刻まれていた。
ジャハンギル帝はアグラを帝国の首都にして城の建設をはじめたアクバル帝の息子。
高さ1.5m、直径2.4mのバスタブだったのか。
↑そういえば浴槽内に入る時に使う階段が側面に削りだされているのが見える↑
バスタブなら宮殿の中の浴場に作ればよいと思うけれど、これはジャハンギルが遠征する時に使っていたモノ。
こんなものを持って戦争にさえ行っていたらしい。
※1843に再発見され、デリー城(レッド・フォート)に1862まで置かれていたものを、イギリス人考古学者のジョン・マーシャル(モヘンジョダロの発掘などで有名)が、もともとあっただろうこのアグラ城にもどしたと解説版に書かれていた。


ムガール帝がイギリスの影響をうけはじめる以前の建築は西洋建築にはない美しさをもっている

イスラム教徒なので人物の表現はみられないが、幾何学的なデザインは現代の目で見ても古くなっていない。

↓こういう壁の飾り棚にはどんなモノが置かれていたのだろう。
今はイギリスのどこかにあったりするのかしらん。


ヤムナー川を見晴らす場所にテラスがある

★タージマハルを建設したシャージャハン帝が息子アウラングゼーブに幽閉された場所。

ムムターズ妃はシャージャハン帝との間に十四人の子供たちをもったが三十六歳のお産の後に没した。
四人いた息子たちの殺し合いを見ずにすんだことは幸いだったかもしれない。

兄弟の殺し合いは三男のアウラングゼーブが制し、「自分を愛してくれなかった」父をここに幽閉した。
父のお気に入りだった兄を処刑し、その首を送りつけた。
豪華な品々を没収し、生活を困窮させ、七年もの間いじめ続けた。

建物が美しく装飾されているゆえにその悲哀は深くなる。
↑この部分には象嵌された貴石が盗まれずに残っていた
テラスから妃ムムターズ(アウラングゼーブの母)の廟タージマハルが見える。
シャージャハンは対岸に自身のための黒いタージマハルを建設するつもりだったが幻となった。

第六代皇帝となったアウラングゼーブはデリーに遷都してアグラを去る。
妹たちの嘆願によって、父の死の直前に和解の手紙を送ったとされている。
※アウラングゼーブの肖像画をページの最後にのせました

アグラ城は19世紀に砲撃をうけた跡ものこされている↓

通称「セポイの乱」の際、副総督だったジョン・ラッセル鄕は陥落の直前にコレラで死去。
伝染病の遺体を故国に移送することはできず、この中庭に墓がある↓



**
「タージマハルがきれいにみえるカフェがあるのです」
とガイドさんが勧めてくれたので、人力車に分乗した

あ、こんな場所もあるのですね

***
アグラのホテルに行く途中、「タージ・マハル」という映画のポスターを見かけた↓

前述のシャージャハン帝とその息子たちの話を知っていれば、物語は想像がつく。
↑いちばん左が父のシャージャハン。
真ん中の特徴的な冠をかぶって顎髭まで生やしているのが三男のアウラングゼーブに違いない。
(ネット辞典Wikiから引用)後世に伝わる彼のポートレート絵画↓

どの国にも時代劇ドラマがあり、そこには外国人には説明しにくいややこしい物語がある。
ちょうど今年2020年の大河ドラマに登場する斉藤道三とその息子高政の話のように。


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