旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ガンディーが火葬されたラージ・ガート

2020-05-23 10:27:57 | インド
2005年《手造の旅》インドより

「ヘイ・ラーム(おお、神よ)」至近距離から銃撃され絶命する直前のガンディーの言葉が刻まれている

死の翌日にここで火葬され、灰はガンジス川ヤムナー川(ガンジスの支流で古都アグラも流れる)と、若き日々をおくった南アフリカの海に撒かれた。
ヒンズー教徒は墓をつくらない。だからここはガンディーの墓ではない。

墓ではないが、ガンディーを悼む人々が集まる場所となっている。

1948年1月30日、滞在していた支援者の家の庭で礼拝に向かう途中、胸に三発の銃弾をうけた。
ヒンズー教徒だった彼を暗殺したのはヒンズー至上主義のゴドセーという男だった。
イスラム教徒と共に新しいインドをつくろうとしたやりかたがイスラム教徒に妥協的だと不満に思い凶行に及んだ。
※近年、ヒンズー教徒優遇政策を推進するインド内でガンディーの暗殺者を英雄として崇拝する集団ができてきたそうだ
産経新聞のページにとびます


インドの国旗の中心にはあるのはガンディーがまわしていた糸車(チャルカ)なのだとずっと信じていたが調べてみると「アショカ・チャクラ」という仏教由来の法輪にだとわかった。
だが、1931年の独立運動のシンボル旗には糸車が画かれている大英帝国の工業化によって破壊されていったインド社会を、インドの伝統的な綿紡ぎを復活させることで自立させようとしたガンディー。
国旗の上部サフラン色はヒンズー教、下部の緑はイスラム教をあらわす。宗教によって分断された社会を和解できるのは地道な生活なのだと言っているようだ。
イギリスから独立する際にイスラム教徒のパキスタン(現在のバングラデシュも含む)を分裂させてしまったが、ガンディーは最後までジンナー(パキスタンの初代総督となった人物)に分離を思いとどまるように言い続けていた。
現在の国旗にあるシンボルは糸車もあわせて表現しているものと理解したい。

ガンディが火葬されたガートは四方から見下ろせるようにつくられている


1859年にムガール帝国最後の皇帝が廃位されるとインドは独立を失い、第一次・第二次両大戦において多数のインド兵を前線におくった。
↓この「インド門」は1921-1933年にかけて建設された戦没者慰霊碑である



そのすぐ近くにあるこの天蓋には英国王ジョージ五世(現エリザベス女王の祖父)の21メートルの巨像が置かれていた。
※独立後も1968年までそのままだった

ガンディーは暗殺された時、ヒンズー系大富豪のビルラー家の邸宅に滞在していた。
そのファミリーが建設したラクシュミ・ナラヤン寺院

デリー市内でもひときわ立派

観光地のひとつにもなっている

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デリーのレッドフォート

2020-05-22 09:11:36 | インド
2005年《手造の旅》インドより

ヒンディー語でも同じく「赤い城」を意味する「ラール・キラー」という名で呼ばれる

正門の上に見える演説台。
建国記念日をはじめ、インドの首相が国民に向けて大事な演説をする場所となっている。

17世紀前半、古都アグラにタージマハルを建設したシャージャハン帝が建設しはじめた。
息子のアウラングゼーブが父を古都にある同名の「レッドフォート」に幽閉し、ここに遷都。
※遷都にいたる話はこちらから

巨大な城壁がそびえる。イギリス支配時代にはその駐屯地にもなっていた。

巨大な城門をくぐると↓

広大な庭がひろがっている

東西400m×南北500mを超える広さがある。ムガール帝国時代、一般の人々が皇帝に拝謁できる広場でもあった。

ムガール帝国時代の建築が立ち並ぶ

イギリスは統治した街の中心に西欧建築をこれみよがしに出現させることが多かったのだが、このレッドフォートの様式はあくまでムガール帝国のものを残している。復元したのかしらん?
※韓国で日本統治時代に建築時代の総督府を取り壊して建てなおしたように?
いや、イギリス人たちも感服する見事さだったから残されたのだろう。

赤い砂岩が基本だが、

特に大事な建物は全面大理石。外国使節などの賓客と対面する場所だったそうだ。

細部の装飾がすばらしい。上の写真の柱の下部を拡大したところ↓

宝石を細かく象嵌してある豪華な装飾がここだけ残っているのは不自然。
たぶん、往時の姿を再現するために近年復元されたものだろう。
↓他のほとんどの部分は無残にえぐりとられてしまった跡なのだ↓

誰が持ち去ったのかは明白

往時の姿を想像すべし



ここにはかつて水が流されていた。
暑い街の宮廷ではどこでも、いかに過ごしやすい空間にするかが建築家に求められていた。


ひとつの大きな街のよう。インド大反乱(通称「セポイの乱」の後、ここにはイギリス軍兵士の住居が建設されていった。

寺院と20世紀の?給水塔が共にある

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ナハルガル要塞

2020-05-20 10:52:08 | インド
2005年《手造の旅》インドより
ジャイプール市のすぐ西側に市街を見下ろす要塞がある

アンベール城は市の北11キロだが、こちらは町から近い。
1857年に起きたインド大反乱(通称「セポイの乱」)の際には市内のイギリス人たちがここに逃げ込んだ。


砦は中世に狩の舘としてはじまった。
Nahargahという名前は「虎の居るところ」という意味からきているという。

だが、別の伝説もある。

★ラホールの皇子Nahar Singh Bhomiaはかつて古い時代にこのあたりを領有していた。
18世紀はじめの領主アンベール王国のマハラジャが新たに城をつくろうとしたが、何日経っても工事がすすまない。
砦に留まっていた皇子の霊が夜になると昼間に建設した部分を壊してしまっていたのである。
アンベール王国のマハラジャは古い時代の皇子の霊と話をし、
新たに建設する砦に彼の名前をつけることを条件に砦から離れてもらうことになった。
1734年から建設された現在の建物の一角に彼のための寺も建立された。

**
ここはアンベール城と同じ世界遺産に認定されているが、比べるとぐっと観光客が少ない。
ゆっくりお茶もたのしめる。


18世、ここはマハラジャの後宮が置かれていた。
十二人の妃のために平等な大きさの部屋が十二建設され、今もそのとおりに見られる。

屋上部分を歩いて見下ろすと、たしかに同じような区画がずらりと並んでいた。

そのころからのものと思われる壁絵

ゾウの背に乗るのはマハラジャかしらん





イギリスの支配が強まっていた19世紀はじめ、すでに荒廃していたこの砦に迷い込んだ男の、
まるで「こぶとりじいさん」みたいな伝説もある。
★半分目が見えなくなくなって仕事ができなくなった年老いた鍛冶屋。
家族から見放され、自暴自棄でさまよって入ったこの砦で迷って夜を迎えた。
やがて暗闇からいくつもの鬼火が現れ彼のところにやってきた。
「何故こんなところにいるのか」と訊ねる鬼火。
役立たずで行き場を失くした自分の苦しさを吐き出した鍛冶屋に、
鬼火は「空中に泡をはいてそれを金箔に変える方法」を教えた。
朝になり、街に戻った鍛冶屋は息子にその方法を教え、
家族は豊かに暮らすことができるようになった。

突然金持ちになったのを不思議に思ったライバルの鍛冶屋、
ナハルガル砦での不思議な夜の事をききだした。
同じように夜の砦へ行った彼は、
翌朝無残な遺体となって発見されたのだった。


この建物は20世紀になってからイエズス会の学校として使われたこともある。
そのせいか、どことなく西欧的な内装が多い。

折衷を感じさせるデザイン

百五十年ほど前に建設されたアンベール城がラジャスタン地域最高の建築・装飾で埋め尽くされているのとくらべると、こちらは西欧を中途半端に模倣している。
**



1944年にはここから時間を知らせる大砲が鳴らされていた。
ジャイプール市内の巨大日時計ジャンタル・マンタルから合図が送られていたのだそうだ。

砦を下りて市内にもどろう

途中で貯水池の中に建設された「水の宮殿」にてフォト・ストップ

写真でぜったい伝わらないのはこの池が強烈な悪臭を放っていたこと。
片づける人のないゴミが山のように堆積しているのだ。
2005年当時は誰も近づかなくなっていた「水の宮殿」、十五年後にはどうなっているのかしらん。

***
ジャイプール旧市街入口の喧騒

ピンクの砂岩を用いてつくられ

さらにピンク色で装飾している





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アンベール城

2020-05-19 10:14:27 | インド
2005《手造の旅》インドより

万里の長城のような城壁が尾根の彼方まで続いている。

実用の城だったことがわかる。
ゾウを下りて宮殿への階段をあがる。

西洋の中世の城とはちがって明るくひらけた空間がひろがっている。


ここまではいわば公共の場所として、外国使節の謁見などが行われていた。

柱をよくみるとそれぞれゾウの顏になっている

インドにおいて最強の動物はライオンではなくてゾウなのだ

日本の神社仏閣のデザインの元はこういうところから発しているように思える。

さらに階段を上って立派な門をくぐる。

プライベート空間への門は
階段の上に画かれているヒンズーの神様にちなんで「ガネーシャ門」と名付けられている。

※ゾウのアタマを持つに至る神話もおもしろいのだがそれはまた別の機会
プライベートエリア最初の広場に面したジャイ・マンディル(勝利の広間)は、おそらくこの城いちばんの見所と言えるだろう。
通称「Sheesh Mahal(鏡の宮殿)」と呼ばれている↓

ここ専用の警備が見張っているのもわかる。
★こんな装飾は他でみたことがない!
※2020年現在は柵があって自由に見られないようだが、十五年前はほとんどどこでも入っていけた



床から近いところには大理石浮彫の「マジック・フラワー」※いろいろな花の特徴をひとつにした・存在しない花。
少し上のアラバスター壁に、おさえた色調のつぼ型のガラス装飾

天井には繊細にカットして盛り上げられた鏡を幾何学図案にはめこんでいる

圧巻



↓下は同じ建物内の次の間だが、センスの良さが光る

**
スロープを登ると

眺望のすばらしいテラスにでた

手摺が膝の高さまでしかないのは

欧米とちがって床に座る文化だったから。
絨毯が敷かれ、天蓋の下で過ごしていたのだ↓

↑天蓋の柱を入れる穴があるのをガイドさんにおしえてもらって、はじめて当時の雰囲気を理解することができた。

ガラス窓でなく、アラベスク文様の透かし壁。
ここでも窓は座った時にちょうどよい高さに位置している。

細部の大理石彫刻

***
隅っこの部屋を覗くと、古い木製のとびらが押しこめてあった↓

資料を読んでいくと1970年代には廃墟のように荒廃していたそうだ。
アンベール王国のマハラジャはジャイプールのシティ・パレスに住み、かつての王宮=アンベール城には足を運ばなくなっていたのだろう。
※マハラジャは今もシティ・パレスの一角に住んでいる。
現在のアンベール城はその後に修復が行われた成果なのである。

細部にはまだまだこれから修復されるべき部分がたくさんめについた。

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象に乗ってアンベール城へ

2020-05-18 10:46:18 | インド
2005年《手造の旅》インドより
アンベール城は1727年にジャイプールに遷都するまで王国の首都だった。

人工湖の向こう。視界いっぱいにひろがる↕上の城の左上にジャイガー・フォートと呼ばれる離宮

10世紀ごろから砦があった場所に
現在見えている巨大な城が16世紀末から百年ほどの間に建設されていった。
当時のマハラジャのように象で上がっていくのが観光客に人気。

色鮮やかに「化粧」?をほどこされた象。
目の前にすると圧倒される大きさ。
どうやって乗る?

あ、この階段の行列が

象のための専用乗り場だった。出物腫物ところきらわず(^.^)

ゾウのなかでもアジアゾウは特に絶滅が危惧されているが、
それを糧に働く人々にとってはどうしても必要なのだ。
※世界のゾウ事情をスリランカを訪れた時に知った話を書きました
※2005年の調査では87頭のゾウがこの仕事をしており、際限なくこき使われて栄養状態がよくないものがでてきていると書かれた資料があった。
その後、一日のゾウの往復回数を制限し、ジープでの送迎もはじまり、現在はゾウの環境も改善されているらしい

ゾウに乗った観光客目当ての物売りは同じぐらいの高さで待ちうけていた

城に近づくと城壁が頭上高くにそびえている

城門が近い

左手をみると、冒頭の写真を撮った池が見える

そこに四角い幾何学上の島「ケサール・カヤーリー・バーグ水上庭園」がある。

※宮殿内から見下ろして撮影↑


大声で声をかけられてそちらを見ると、写真屋さんですね(^.^)

王城の門をくぐる時、お客を乗せずに出てきたゾウたちとぎりぎりにすれ違った。

香辛料売り

王宮前の庭でゾウを下りる。
さぁ、今度は城自体を見学しよう。


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