毎日鬱々と過ごしていて、なかなかストレスから解放されずじまいにいる。
自分はほかの人と一緒にいられない性格のようで、そろそろ周囲から少し距離を
とって暮らすことを考えている。
これは多分に父親の性格を引き継いだように思えるが、33年前に60歳で他界した
父親が歳をとってどんな性格になっていたかは一生わからない。
自分は、父親が他界した歳まであと二年。そのあたりが一つのターニングポイント
になるのではないかと考え始めたのはここ数年のことだ。
頑固で融通のきかない父親だった、背は低くやせ型で神経質な人だった。
何についても一家言持っていて、意固地だった。
昭和の初めに生まれて、満州にわたって働いていた。終戦とともにソ連軍に襲われ
命からがら逃げ伸びて横須賀に上陸したという。
途中、引き揚げ船の甲板で鹿児島県の開聞岳(長崎鼻)が見えたときに、誰かが
「日本だ」と叫び、周囲の人たちが皆泣き崩れていったと語っていた。
横須賀から、なんとか列車に乗り込み神戸を目指したが、木枠だけの車窓から
見える街は空襲で焼け野原、神戸駅に着いたときにまともだったのは楠公さん
(湊川神社)だけだったと話していた。
焼け野原を駒ヶ林に向かって歩いたが、何も残っておらず絶望していたと。
そこで焼け跡のバラックから出てきた人が、明石の方に逃げたはずだという。
あてのない父は大蔵海岸にたどり着いて、流木に腰かけて海を見ていたそうだ。
当時の大蔵海岸は白砂青松、瀬戸内の穏やかな海が広がっていたらしい。
周りに子供たちが遊ぶ声を聴きながら、15,16年の短い人生を考えていた。
ふと、子供たちの中から女の子が走り出し、目の前を横切っていく。
それが、実の妹だったという。俄かに信じられないけれど本人はそう言っていた。
他界してから33年、自分が25歳のこの季節に、帰宅途中のJR元町駅の階段下に倒れて
いて、神戸赤十字病院に搬送されたときにはすでに息絶えていた。
風貌も人生もまるで似ていない親子ではあるが、よくよく考えてみると性格には
共通点も多く、今になって身に染みる言葉もある。
父親も自分も、理由は別にしてなかなか自分のみの我儘を貫けない。
この歳になってまだいつも自分以外のことに気を遣ってばかり。
「もういいよ」と言ってくれるのをずっと待ちながら残された人生を過ごして
いくような気がしてならない。