Remains of The Accidents

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父親のこと

2021年09月05日 | つれづれ

毎日鬱々と過ごしていて、なかなかストレスから解放されずじまいにいる。

自分はほかの人と一緒にいられない性格のようで、そろそろ周囲から少し距離を
とって暮らすことを考えている。

これは多分に父親の性格を引き継いだように思えるが、33年前に60歳で他界した
父親が歳をとってどんな性格になっていたかは一生わからない。

自分は、父親が他界した歳まであと二年。そのあたりが一つのターニングポイント
になるのではないかと考え始めたのはここ数年のことだ。

 

 

頑固で融通のきかない父親だった、背は低くやせ型で神経質な人だった。

何についても一家言持っていて、意固地だった。

昭和の初めに生まれて、満州にわたって働いていた。終戦とともにソ連軍に襲われ
命からがら逃げ伸びて横須賀に上陸したという。

途中、引き揚げ船の甲板で鹿児島県の開聞岳(長崎鼻)が見えたときに、誰かが
「日本だ」と叫び、周囲の人たちが皆泣き崩れていったと語っていた。

横須賀から、なんとか列車に乗り込み神戸を目指したが、木枠だけの車窓から
見える街は空襲で焼け野原、神戸駅に着いたときにまともだったのは楠公さん
(湊川神社)だけだったと話していた。

焼け野原を駒ヶ林に向かって歩いたが、何も残っておらず絶望していたと。
そこで焼け跡のバラックから出てきた人が、明石の方に逃げたはずだという。

あてのない父は大蔵海岸にたどり着いて、流木に腰かけて海を見ていたそうだ。

当時の大蔵海岸は白砂青松、瀬戸内の穏やかな海が広がっていたらしい。

周りに子供たちが遊ぶ声を聴きながら、15,16年の短い人生を考えていた。

ふと、子供たちの中から女の子が走り出し、目の前を横切っていく。

それが、実の妹だったという。俄かに信じられないけれど本人はそう言っていた。

 

他界してから33年、自分が25歳のこの季節に、帰宅途中のJR元町駅の階段下に倒れて
いて、神戸赤十字病院に搬送されたときにはすでに息絶えていた。

風貌も人生もまるで似ていない親子ではあるが、よくよく考えてみると性格には
共通点も多く、今になって身に染みる言葉もある。

父親も自分も、理由は別にしてなかなか自分のみの我儘を貫けない。

この歳になってまだいつも自分以外のことに気を遣ってばかり。

「もういいよ」と言ってくれるのをずっと待ちながら残された人生を過ごして
いくような気がしてならない。

 

コメント
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