1993年ころだったと思うが、ある銀行から「紹介したい客がある」との話があり
当時の上司とともに面談に出向いた。
世界中のコンピューターがつながるというとんでもない話だった。
壮大な話に目を輝かせる自分に、上司は「ま、面白そうだから少し詳しく聞いて
みれば」と勧めてくれた。
金融関係の仕事なのでやはり色々と資料をもらう必要があったので、それから
何度か事務所にお邪魔した。
当時、先方の事務所にあったのは「Silicon Graphics」のIndyというWorkstationだ
ったと記憶しているが、「Indigo」だったかもしれない。
汚い事務所だったことと、初代の社長さんがいつも「寝起き」のような感じ
だったのをよく覚えている。
事務所では、Indyのディスプレイでヨーロッパの様々な研究機関のサイトをみせて
もらい、空のかなたに飛んでいけたような気がして、なんだかわくわくしていた。
次第にこの世界にのめりこむのだが、自分のいる会社では何を話してもなかなか
理解されないで苦しんだ。
一旦承認された申請を取り消そうとされたり、苦労しながら付き合っていた。
あるとき、インターネットについて書いてある書物を探して国立国会図書館や
新宿紀伊国屋などを回ったら1冊だけ翻訳されていたものがあった。
当然自費で購入したのだが、案の定書いてあることの半分以上は理解不能だった。
その間にも先方は投資を続けるというし、2代目の社長は「大丈夫だよ、ウチは
大きな会社になるよ」と繰り返すばかり。
こちらが腰を引いている間に、二種通信業の免許がおり、大手商社の出資が
決まったという。
ウロウロしているとほかの会社にとりこまれてしまう・・と焦ってばかりいた。
結果的に、財務を担当していたTさんがいつも気を遣ってくれたおかげでなんとか
取引を継続していただき、その間にその会社とインターネットが急成長した。
米国を中心に拡大していたインターネットが、阪神淡路大震災のような大災害でも
通信手段として維持されたことで国内の大企業が注目した。
自分も、親会社(大手商社)の会議に招かれて「当グループで実際のインターネット
ビジネスにかかわっている」と紹介されたこともあった。
その翌週には、自社の社長の声掛けから取締役を集めた場でインターネットを語る
ことにもなった。
時まさにNHK特集で「電子立国」という番組が放送されている最中だった。
社内の唯一の理解者だった同期入社の友人とともによくこの番組を見ていた。
半導体が世界を変えていくことが強調されていたが、自分は実務の関係から通信
というインフラがKeyであることを知っていた。
ただ、その時でさえまだ社内の大半の人は自分のことを色眼鏡でみていた。
応援してくれる人たちと揶揄するばかりの人たちに挟まれて迷いつまずく毎日だっ
たが、インターネットの爆発的な拡大はどんどん追い風になり、瞬く間に
社内の評判も変わっていった。
毎月のように発生する投資が自分の成績になりだすと、それまでの苦労が
うそのように評価も上がっていった。
賞与支給日に役員に呼ばれ「君の貢献度について少し配慮しておいたからな」
と肩を叩かれた。
件の同期に聞いて自分の賞与が同期のものより増額されていることを悟り
苦労が報われたと感じたものの、こんなに面白い仕事をして評価された
ことに、ついつい天狗になってしまっていた。
天狗の鼻はすぐにへし折られるもので、早々に転勤を言い渡された。
転勤先は名古屋の事務所、端っこの長机にPCが2台ほど並んでいた。
事務の女性に尋ねると「東京から送ってきたけれど、あまり使い方がわからない」
というので、インターネットにつないでPizzaHutのサイトなどを見せて「これから
はインターネットで買い物もするようになるよ」と言ったが、みな「??」と
いった感じだ。
この女性が現在の妻なので、後で聞いたら「なんか変なことをいうオタクの人」と
いう印象だったという。
名古屋での勤務はメンバーに恵まれ、日々面白おかしく過ごしていたのだが、その女性と
結婚することとなって新居に移ったころに上司に呼び出されて再度転勤となることを告げ
られた。
東京でインターネットを使ったビジネスを起ち上げようという話が出ていて、担当者の中
ではお前がやるべきだということになったという。
当時の会社は、大阪発の泥臭いビジネスが主流で、その方向で取扱高が拡大しており
その関係者が営業を牛耳っていた。
担当の役員に会社に向かうバス停であったとき、「お前、なんか変なことをやっている
んだってな。PCの前でこちょこちょやっているだけで利益が上がると思うなよ」と何か
責められるような説教をいただいた。
正直なところ「こんな会社ではインターネットビジネスはできないな」と見下していたの
で、ほとぼりが冷めるまで名古屋で大人しくしていようとしていたのだが、この一件で
さらにやる気がなくなった。
奥さんもやっと新居が落ち着いたところ、結婚生活に慣れてきたところに関東への引越
は嫌だったようで一晩中泣いていた。
自分のインターネット自慢もここいらあたりまでだった。
そのあとは大したことなく、大した成果もなく過ごした。
最初につきあった前述の会社が興した事業が失敗したとき、社内には自分の
「化けの皮が剥がれた」という人たちもいてさらに嫌な気分になり、どんど
ん気持ちがインターネットから離れていった。
当時は、あとからあとからインターネットを語る輩も出てきて「いつか
こうなると思っていた。バブルははじけるのだ。」という人もいた。
仕事はインターネットからどんどん離れていったが、生活はどっぷりとインター
ネットにはまり、興味は留まるところを知らなくなっていた。
なぜならば、もうこの時点でインターネットは「特別なもの」ではなくなっていた
からだった。すでに生活の必需品だったのだ。
Win3.1のPCにソケットを入れ、MOSAICでWhiteHouseの猫の声を再生していた時代は
遠い遠い時間のかなたにセーブされていったようだった。
Marc AndreessenもJames Clarkも過去の人になっていた。
自分の会社も業界再編から合併を繰り返して大きくなるうちに、自分のことなど何も
語られないようになった。
ここで定年退職の期日を迎えて、若い社員たちに「変わったおじさん」と思われながら
見送られることになり、ある意味本望ではある。
最初に語った会社は、その後も成長を続けて大企業となり、2代目社長は現在会長と
なって元気に過ごされているようだ。
お世話になったTさん、当時銀行から転籍されて今は財務を見ておられるWさんなど
一度ゆっくり会いたい方々もいらっしゃるけれど、記憶のかなたに消えた身としては
大人しく遠くからご活躍を喜んでいようと思う。
日本のインターネット、黎明期にこんな方々と出会えたことに感謝の気持ちしかない。
夢をみさせていただいて、本当にありがとうございました。
(T.K)