Remains of The Accidents

アクシデンツなページ

【読了】生きてるかい? 南木佳士

2023年03月19日 | 読書

この冬は仕事のことでずいぶん疲れてしまった。
そのせいか身体も永年貯めていた弱みを表に出してしまった。

そんな疲れたときに、図書館で南木佳士のエッセイ集から声がかかった。

何か深い縁があるわけでもないのだろうが、これまでの人生でも少し疲れた時期には
なぜかしら南木の作品を手に取ってきたことを思い出した。

最初に「スターダスト」を読んで本棚に並べたのはいつのころだろう。
たしか、そのときも関西から東京に転勤したばかりでずいぶん疲れていたころだった。

南木の小説を一冊読了すると、自分より疲れていた話に自分の心と体がバランスを取り戻し始める。
ただし続けてもう一冊読んでしまうと、南木の疲れの大きさにこちらが疲れはじめてしまう。

なので、南木を読むときは小説であれエッセイであれ、少し間を置いて均衡を維持するようにしている。

今回は、たまたま予約した小説の受け取りが叶わず、代わりの小説を物色していたときに
本棚から声がかかったような流れだった。


20代の若造のくだらない疲れを癒してもらった作家に、還暦近くになってまた癒してもらう。
実際に疲れてしまったことのある南木の言葉が、自分に染み込み、作品の中の南木と対話することで
少し疲れをほぐしているのかもしれない。

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The Sounds of Silence

2019年10月12日 | 読書

Hello darkness my old friend
産まれし前の漆黒よ

I've come to talk with you again
相まみえんがため、また来たり

Because the vision softly creeping
けだし、かの影は音なく寄り来て

Left its seeds while I was sleeping
夢中にその種子を残さん

And a vision that was plated in my brain
爾後、残影脳裏に植えられ

Still remains with in the sounds of silence
いまだ静寂の音とともにあらん

-----------------------

中学に入ったころから聞いている曲ながら、感覚的な解釈しかしたとことがなかった

60年代の曲であり、耳になじんだ響きだ

ただ、当時手に入れたレコードの翻訳で「やあ暗闇、ぼくの古い友だち」などとされ
ていたように記憶している

そんな日本語は聞いたことがない、少なくともなじまない
ここいらに現代翻訳の限界がある



中学生のときの教科書は「NEWHORIZON」で、1年生の初期には

 Hello Jane!  How are you?
 こんにちはジェーン、ご機嫌いかが。

先生も明石出身のわりに変な標準語で訳さなければならない
明石の中学生が友達に「ご機嫌」を訊くことはなく、肌になじまない教育だった

もし今どきの翻訳が少しNativeに近づき


 Hello, How are you?
 まいど、どないや

 I'm fine,thank you.
 ま、ぼちぼちやな おおきに

などとなっていれば幸せだし、外国語の壁は低くなるのだろうが
こんな訳を解答用紙に書いても、恐らく点数は稼げない


会話は肌を離れて存在しない
言葉は音を離れて伝わらない
これは普遍的なことだ


冒頭に書いた意訳は勝手な解釈であり、相当な誤訳であるが
英語であろうと仏語であろうと、詩には喩があり、韻も踏むもので
つまらないセリフの集まりではない

古来、漢詩を訳して伝えるさいに、先人はその音さえも大事にした
ことに比べると、現代の翻訳はあまりにも稚拙だ

インターネットで世界が拡がり中国語の音(韻)も簡単に聞くことが
できるようになると、その音の世界と言葉の世界がつながってきて
非常に興味深い

録音機も再生機もない時代に海を渡ってきた詩を大和言葉にアレンジ
しながら、意味と音を大事にしてきた

この才能は日本人の日本人たるゆえんかもしれず
大事にしていきたいものだ

----------


冒頭の訳に帰ると、なんどもこの曲を聞き返す中で
ふと、「暗闇」が母体にいる間の目を閉じた世界のことで
記憶にもないはずなのに、何故かしら誰もが「温かい」と
知っている、あの闇の中ではないかと考えた

そして、ひとは産まれ、泣き出したのちに目を開ける
そこから目にしたものは、常に脳裏に残され記憶となる

それより前に、何も知らず母親のお腹の中でやすらかに
聞いていた音こそが Sounds of Silence なのではないかと


ただ、この詩は続きがありこの部分の解釈とはつながらない
敢えて恣意的に記してみただけのもので参考にもならない







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【読了】 口笛をふく時 遠藤周作

2016年07月11日 | 読書




三ノ宮で中学のころ好きだったひとを見かけたことをきっかけに
昔々読んだ小説を思い出して、少し探してみたらAMAZON
に文庫本があった

早速購入したところ、一気に読み終えてしまった

いつ頃読んだのか記憶は定かではないが、感想文を書いた覚え
があるので、少なくとも中学校から高校にかよっていたころだろう
明石市立図書館で借りてきた単行本だったように思うので高校時
代の夏休みだと思う

物語は、主人公小津が新幹線の中で中学時代の同級生に声を
かけられたところから始まる

全体的に、戦中派と戦後派、戦争と高度経済成長、父たる自分と
医者である息子にある溝を浮き彫りにしていく物語

戦争によって短命に終わった人生、戦争によって大きく変えられた
人生、そしてその中で特に何事もなく平凡に進んだ自分の人生
三つの人生がふとしたことから再度結びついてしまう

当時は自分の父親と友人の姿と重ねて読んでしまい
勝手に涙していた 

 


そんなことより、今回は明石の実家に帰る電車の中で読了したのだが
沿線の風景を眺めながら、この小説って一体いつ読んだのだろうかと考え
ているうちにいろんなことを思い出した

新快速電車がちょうど神戸駅に到着したときだった
たしか、転校した女の子を追いかけて神戸駅までキセルしたことがあった
と記憶のすみからかけらがよみがえる
小学5年生の晩秋だったように思う

母親のバレーボール大会についてくるという情報を得て、明石公園
にバカ友4人ででかけた帰りだった

その時のモノクロ写真が今でも残っていてスヌーピーのトレーナーを着ている
今の王子と同じ歳だから、ずいぶん自由にいろんなことをやらせてもらっていた

たいした小遣いももらっていなかったので切符は入場券、神戸駅までドキドキ
しながらバカ友たちと乗車して、そのまま折り返して明石駅まで帰ってきたはずだ
他愛のない話だが、5年生にしては行動力のある子どもたちだった

さてさて来週は王子がクラスの仲間たちと市営プールに遊びにいくという
王子の感覚はわからないけれど、そろそろ女の子が好きになってもよい
歳になってきた

王子、ガンバレ、そろそろだ


 

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【読了】 光 三浦しをん

2012年01月10日 | 読書

6日から帰省していた
また、例によってずいぶんお世話になって帰ってきた
我がまま放題させていただくのはいつものとおりで
悪い印象を積み増すばかりになってしまう
恐縮の極みではあるが深謝することしかてきない

帰省中に読んでしまおうと持参した単行本であったが
1日目に読了してしまった
津波による人生の改編については言葉がないが
発刊時期からして昨年の災害をモティーフにしたものではない

ただ、夫婦というものが多分に疎遠な関係であることだけが
印象に残った
一緒になったという事実、子供を作ったという事実も
存外、時間とともに薄れていく幻影のようなものかも知れない
しかしながら、主人公である殺人者にとって他に行くところもなく
殺人者と知る妻も他に選ぶ道もないことで元の生活に戻っていく

最終章での帰着は、存外現実感の高いものと感じられたが
妻女の立場を強くしてしまったのは反省点としても、既に「穢い」ものと
して扱われだした我が家ではいったいどうなるものだろうかと
ふと考えた


「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」
(体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが
体としてあるように見えているのです)と







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【読了】 千年樹 荻原浩

2011年10月04日 | 読書

樹齢千年の樹のまわりで起こった人々の悲しい物語
生きるということに軽重はなく、生は生、死は死であり、それ以上でも
以下でもない
時は移り、悲しみの種類はかわれども「生きる」ということは大変な
ことだということを、死から生まれたこの樹は知っている

ただ、荻原浩の作品としてはいまひとつ「キレ」がなかったように思う
少々の衝撃をもって読み始めたのだが、最後のページを読み終えた
ときに何かしら物足りなさを感じてしまった


閑話休題

昨日のブログを見ていて、やはり「祭り」というのは色鮮やかな「ハレ」
の世界なのだなと感じた
法被の青、鉢巻の白に赤い「祭」の文字
少なくとも今生きている我々は「ハレ」の日を祝い
「生」に感謝している

気がつけばもう10月、今週からは秋の空になっている
駅前の書店ではもう来年のカレンダーを売り出している
最近、だんだんと終盤に向かってゆるやかに舵を切り始めているような
気がしている

毎日々々、たいしたこともせずにフラフラしてきただけの人生だけども
奥さんも子どもたちも、実家の母親も元気にしている
季節にかかわらず美味しいものを食べて、楽しく過ごしている

北半球の秋は「感謝」の季節でもある

そういえば、9月24日には3回目の「波止場釣り」に挑んできた
場所は、京浜運河の東扇島西公園
台風でずいぶん波を被ったようで、芝は枯れてゴミだらけになっていたけれど
いわしとサッパが大漁だった



以 上

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