Remains of The Accidents

アクシデンツなページ

もうじき夏がくる

2024年06月15日 | つれづれ

梅雨がこないまま夏がくるようだ。

今のところ神奈川のダム貯水率は平年を上回っていて少し安心だが
油断はできない。

かと言って自分たちにできることもない。

ただ、宮ケ瀬湖の周りを単車で走って満足するだけだ。何の役にも
立たないだけでなく、逆に化石燃料を無駄燃やしているだけだ。

小学生のころ、大気汚染がひどくて「光化学スモッグ」という得体
のしれないものに脅かされていた。

光化学スモッグ注意報や警報が発令されると、グランドには黄色や
赤色の旗が立てられ、児童はグランドに出られなくなる。

自分の周囲には、光化学スモッグにやられて苦しむ人もいなかった
のでどうも不思議に思っていた。

校舎の中や木陰から無人のグランドを見て、なんだか残念な気持ち
でいたのを覚えている。

それくらい夏が好きだった。

光化学スモッグが出てしまうとプールにも入れず、ただただ日陰にいるだけ。

なんともつまらない夏休みになってしまう。

なので今度は早朝に遊びに行くことを考えたのだが、これには難点があった。

つきあってくれる友人がいなかった。

最初は、朝5時に起きて虫取りにいくことで同行してくれる友人もいた。

朝寝坊してゴロゴロしない、且つ元気に出かけてリスクも少ないので母親たち
からの評判は良かった。

ただ、毎日朝寝坊していた友人たちにとって「早起き」を続けることは至難で
あり、まったく続かなかった。

仕方ないので自分ひとりで出かけていったりしたのだが、街には早朝散歩老人
しかいないので、たいして楽しいものではなかった。

結局、早朝に起き出して誰もいない玄関の小あがりでひとり新聞を眺めていた。

自分でも、少し変だとは思っていた。

その後も早起きはクセになっていて、高校生になってもやたら早起きだった。

クセなのだがヒマなので、この頃から早朝に試験勉強をするようになった。

勉強しながら?聴いていたラジオは22時台の毎日放送系のものから、「オール
ナイト日本」第2部や「走れ歌謡曲」に変わった。

それらが終わってしまうと宗教系の番組になる。

ここでようやくラジオから切り離されてより集中できる時間になった。

そのまま、学校まで自転車ででかけて試験を受けられるので、恐らく成績も少し
上向いたのだと思っている。

「早起きは三文の得」とはよく言ったものだ。

 

高校2年の2学期だったと思うが、突然に数学に目覚めたことがあった。

当時の数学担当はカブトヤ先生といってトツトツと淡白に授業を進めていかれる
先生で、もともと数学が不得意な自分は1学期の間は授業を聴いてもよく理解でき
ないので諦めていた。

ところが「微分・積分」のセクションとなったとたん、なぜだかどんどん面白く
なり、教科書の説明がすごくわかるようになった。

何がきっかけだったかは覚えていないが、よくいう神が降りてきた状態になった。

そうなるとほぼ無双で、2学期の中間試験ではとうとう90点を超えてしまうという
奇跡が起こった。

採点後に解答用紙を返却する際、カブトヤ先生が「このクラスにすごく理解の進んだ
人がいますぅ。90点越えてますぅ。」といい、「**君っ、よくできてます。」と
自分の名前を呼んだ。

周囲の反応は「?」のみだった。

自分ではすらすらと解答できたのでそこそこ良いだろうと思っていたので、そんなに
びっくりしなかったのだが、悪友たちはキョトンとしていた。

そんなこともあった。

長い柄の捕虫網でセミを採りつくした夏休み

早朝の砂浜にオキゴンドウの死骸が流れ着いていた夏休み

テトラポッドの海岸で毎日のように飛び込んでいた夏休み

冷房の効いた港のゲーセンに入り浸っていた夏休み

土管に手足をもいだ蟹を入れてひと泳ぎすればタコが獲れた夏休み

夕立ちに濡れ、女友だちのブラウスが透けて少し緊張した夏休み

花火大会のあと、彼女の後姿を見つめていた夏休み

 

もうじき夏がくる

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ひとそれぞれに

2024年06月05日 | つれづれ

日々黙々と仕事を続けている。

定年退職後は延長雇用ということで身分は嘱託社員となっている。

嘱託社員の割には毎日々々残業続きの日々だ。

永年携わってきた仕事なのだが、最近はもう何かに追われる仕事からは
離れたいと思うようになってきた。

昨日、取引先の方が異動の挨拶に来られた。

以前は、同じ会社の代理店としてつきあっていて、色々と開発背景や客先への
説明方法などを教えてもらった方だ。

お互いに、会社が代理店契約を解約したことで仕事の内容が変わり、彼は
定年まで2年ほど残して子会社に異動となっていた。

名刺をいただいたのだが、肩書はなにもなかった。

「**さんはいつまで続けられるのですか」と聞かれたので、素直にもう
追われる仕事はやめたくて、今年いっぱいかと考えているとした。

彼も同様だといい、60歳の定年を迎えると息子も就職する歳なので自由に
させてもらおうかと考えているという。

いずこも父親というのは、家族のことから考えてしまうものらしい。

彼には少し負い目がある。

実のところ、代理店契約の解除は自分が言い出したことで
その話を彼の上席と食事をした際に話したのは自分だった。

元々はこの事業をどちらかに寄せて少し規模を拡大して維持
していこうかという話だったのだが、社内で参道が得られず
にいて、最終的には撤退の道を選んだのだ。

我々の話を聞いた彼の上席は、その後すぐに社内で事態を報告
して、同じ道を進むように仕向けていたのが判ったのは、その
食事会から1ヶ月ほど経った日だった。

半年後に彼と会ったときには、自分は業務から外されて毎日
顧客対応だけしているとしていた。

その後、上席者が異動になり新任からは「なぜ代理店をやめた
のか」と云われて憤慨したという。

あの時、不用意にあんな話をしなければ彼の人生が少し変わっ
ていたのかと思うことがある。

これまでの人生を振り返ってみると、自分は不思議に少し
幸運をつかんで生きてきている。狙って得たものではない。

そして、いつもその陰でなぜだか周りの人たちが少し不幸に
なっているような気がしてならない。

考えすぎだとは思うが、誰かが勝てば誰かが負けるのが必定で
あれば、なにかしらそういったバランスがあるように思えて
ならない。

 

思えば、大した努力もせぬままそこそこの大学からそこ
そこの会社に潜り込んだだけ。

面白おかしく若いころを過ごしていたら、いつのまにか
会社が大きくなり、収入も適当に増えていった。

結婚して家族に囲まれるなどと若いころには想像もしなかった
ことになり、ずいぶん楽しませてもらった。

図体ばかり大きくて、気の弱い泣き虫の男児にしては出来すぎ
の人生になった。

まさに「在りがたい」ことなので、残りの人生もこのまま
気ままに暮らしていくつもりだ。

あじさいが咲けば、また一つ歳をとることになる。

 

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