Remains of The Accidents

アクシデンツなページ

Leap Before You Look

2021年09月18日 | 川崎

 

ウダウダ考えていても仕方ないので、まずは走ろうと

先週末はMT-09で走り出した

MT-09は車検明けで、以前に比べて各所のボルトが締められていて乗りにくくなっていた

行先は榛名山、榛名山から沼田、川場村を通って日光を目指した

自宅から関越道を目指す経路は、最も嫌いな経路だ

なにせ朝から環八から笹目通りと渋滞が避けられない嫌な道が続く

東名と関越をつなぐはずの外環道は住宅地の陥没事件が発生して停滞している

この道がつながるころにはもう単車に乗れる歳ではないはずだ

渋滞に苦労しながらもなんとか関越道にはいり順調に花園ICに到着

花園ICからは国道で下仁田まで進み、そこから山道にはいって倉渕という集落を目指した

ナビもなく、頭の記憶域も狭くなっていて携帯でMapを見ては分岐を忘れ、うろうろ
しながら山の中を進んでいくと、少し標高が下がったところで目の前が拡がった

ようやく集落にでた

ガソリンタンクの残量が気になっていたので、GSに寄り携帯で位置を確認したら
そこが榛名山の登り口だった

榛名山自体はそう標高の高い山ではなく、途中の榛名神社に寄らなければ
すぐに着いてしまう距離感だ

湖畔は寂れていて、コロナ禍の平日なので人影もほとんど見えない

湖畔からロープウェイで山頂まで上がれるのだが、一人旅につきやめておいた

そのまま伊香保温泉の階段街をみて、沼田経由で「奥日光ゆけむり街道」

1.5時間ほどで丸沼高原、湯滝温泉を通り中禅寺湖に到着

 

宿は中禅寺湖畔のところにしていたのだが、食事を頼んでいなかった

到着してみると中禅寺湖もほぼ廃墟群の様相、食事ができる感じがしなかった

仕方ないので、いろは坂を下りて日光市で夕食を摂ろうとしたら

今度は雨雲が迫ってきた

コンビニで食事を仕入れて、いろは坂を駆け上がってチェックイン

ポツポツ程度の雨で済んだ

 

翌日は広い範囲で雨予想、早朝に中禅寺湖をたって日光街道を鹿沼市へ

途中、道の駅でMapを確認したら茨城、千葉方面はあまり降らないようになっていた

もう帰ろうかと思っていたが、気を取り直して進んでいると本格的に雨

雨具をつけて北関東道に回ってみたが、雨中にもかかわらず迷走

途中のGSでおじさんに道を聞いてようやく壬生ICへ

そのまま高速道路でワープして雨雲の薄い茨城県南部にむかう

まだカッパは脱げない

そのまま霞ヶ浦沿いに進行、途中の石岡郊外はフルーツ天国、梨、栗、ぶどうと
畑が続く

霞ヶ浦大橋に着くころには晴れてきた

道の駅でカッパを脱いで休憩、お土産に農産物を仕入れて一服

その後、鹿島で一時的に降られたものの、銚子では晴天

港で休憩、ウオッセで青魚でも仕入れようかと思ったが、シートバッグはいっばいなので
見送って走り出した

旭から匝瑳までは相変わらず渋滞続き、時間がなくなってきたので

そのまま成田から高速道路で帰宅した

少しの間だが、以前千葉県民だった時期があるが、千葉県というところは
残念ながら相変わらず「土地は広いけど道は狭い」ところが多く移動時間がよけいに
かかる土地だった

今回は時間の都合で南房総には行けなかったが、寒い風が吹き出したら
南に向かってみようかと思う

一泊二日で730kmほど走ってきた

色々なことがあるが Leap Before You Look なのだと思うしかないのかもしれない

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父親のこと

2021年09月05日 | つれづれ

毎日鬱々と過ごしていて、なかなかストレスから解放されずじまいにいる。

自分はほかの人と一緒にいられない性格のようで、そろそろ周囲から少し距離を
とって暮らすことを考えている。

これは多分に父親の性格を引き継いだように思えるが、33年前に60歳で他界した
父親が歳をとってどんな性格になっていたかは一生わからない。

自分は、父親が他界した歳まであと二年。そのあたりが一つのターニングポイント
になるのではないかと考え始めたのはここ数年のことだ。

 

 

頑固で融通のきかない父親だった、背は低くやせ型で神経質な人だった。

何についても一家言持っていて、意固地だった。

昭和の初めに生まれて、満州にわたって働いていた。終戦とともにソ連軍に襲われ
命からがら逃げ伸びて横須賀に上陸したという。

途中、引き揚げ船の甲板で鹿児島県の開聞岳(長崎鼻)が見えたときに、誰かが
「日本だ」と叫び、周囲の人たちが皆泣き崩れていったと語っていた。

横須賀から、なんとか列車に乗り込み神戸を目指したが、木枠だけの車窓から
見える街は空襲で焼け野原、神戸駅に着いたときにまともだったのは楠公さん
(湊川神社)だけだったと話していた。

焼け野原を駒ヶ林に向かって歩いたが、何も残っておらず絶望していたと。
そこで焼け跡のバラックから出てきた人が、明石の方に逃げたはずだという。

あてのない父は大蔵海岸にたどり着いて、流木に腰かけて海を見ていたそうだ。

当時の大蔵海岸は白砂青松、瀬戸内の穏やかな海が広がっていたらしい。

周りに子供たちが遊ぶ声を聴きながら、15,16年の短い人生を考えていた。

ふと、子供たちの中から女の子が走り出し、目の前を横切っていく。

それが、実の妹だったという。俄かに信じられないけれど本人はそう言っていた。

 

他界してから33年、自分が25歳のこの季節に、帰宅途中のJR元町駅の階段下に倒れて
いて、神戸赤十字病院に搬送されたときにはすでに息絶えていた。

風貌も人生もまるで似ていない親子ではあるが、よくよく考えてみると性格には
共通点も多く、今になって身に染みる言葉もある。

父親も自分も、理由は別にしてなかなか自分のみの我儘を貫けない。

この歳になってまだいつも自分以外のことに気を遣ってばかり。

「もういいよ」と言ってくれるのをずっと待ちながら残された人生を過ごして
いくような気がしてならない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする