主にSPEEDIと鈴木寛文部科学副大臣(当時)関連情報についてメモ
(原文通りのところと要約とが入り混じっている)
敬称略
#またはカッコ( )内はコメント
ここでは主に3つのエピソード
<15日夜:文科省政務三役会議、16日朝“枝野裁定”、同日午前:安全委員会への押しつけ>
<16日夜:ミスターSPEEDIによる逆推定作業、23日夕:記者会見>
<17日~24日:早野と鈴木のメールのやりとり>
が別々の章で述べられているが、最後のエピソードだけが明らかに矛盾している。
『カウントダウン・メルトダウン』を読む限り、鈴木寛文部科学副大臣は政府首脳の中で最も早くSPEEDI問題について知った上で非公表という意思決定に関わったことは明らか。
■ SPEEDI
3月11日午後9時12分、保安院は1回目のSPEEDI試算結果を出し、官邸地下の危機管理センターの専用端末にその予測図を送った。
12日午前1時12分、2回目。いずれも首相には伝わらなかった。
12日 早野龍五・東大教授が鈴木寛文科副大臣に呼ばれ、その後ほぼ常駐する形で鈴木を手伝っていた。
14日 海洋開発機構(JAMSTEC)の地球シミュレーターのコンピューターがシャットダウン。節電と省エネの国からの通達を受け、東大災害対策本部が判断。
山形は義憤に駆られ、鈴木にメール
「文部科学官僚の愚かな対応を辞めさせていただきたい」(ママ)
山形<この国は科学的シミュレーションを危機対応に使えない国なのか…>
猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』のエピソードを仲間に話した。
(日本は必ず敗戦するという開戦前のシミュレーション)
15日早朝、2号機損傷、4号機建屋爆発。同日夜、文部科学省モニタリングチームは浪江町の高線量地区をピンポイントで計測。SPEEDI試算によって予測してた。
15日午後2時20分、早野のツイッター「SPEEDIがフル稼働中ではないかな」
15日午後8時。文科大臣室で高木文科相、鈴木寛副大臣、笹木竜三副大臣ら政務三役5人と事務方の協議。SPEEDIとW-SPEEDI試算結果を示す。W-SPEEDIは関東、東北地方に放射性雲(プルーム)が流れると予測。(ここでも、いつの予測図なのかは書いてない)
鈴木の主張
W-SPEEDIの試算結果が出ると、たちまち風評被害が起こり、東京から福島への輸送もストップしてしまうだろう。…なかでも必要なのは、ガソリンや重油を福島県内に届けることではないか。…「いま、大事なことは、次に亡くなる命を減らすことだ」と相馬市長の言う通りだ。この点に注意を払っておかなくてはならない。
それに、W-SPEEDIは放出量が100%、全原子炉が壊れた場合を前提で計算している。
(だから試算結果は公表しない、という意味)
文科省EOC放射線班の内部メモ
政務三役は「一般にはとても公表できない内容」であると判断
#この部分は新聞記事にもなって以前ブログにも紹介した通り
このメモについて
森口文科相審議官
「備忘録的に書いたもので不正確な点がある。15日の協議では、SPEEDI公表の是非は判断しておらず、議論は継続となった」
(東京新聞編集局編『原発報道 東京新聞はこう伝えた』)
SPEEDIの存在を知った時期
枝野 15日頃 マスコミか何かから
福山 同じ頃 マスメディアを通じて
18日 小佐古らに助言を求める
小佐古 参与就任直後の17日から「SPEEDIを動かせ」と主張
寺田 小佐古がわめいているので知った(原文通り)
海江田 20日頃
松下経産副大臣 23日頃 報道で
遅くとも15日から16日の役割分担“枝野裁定”のころには官邸政務中枢はSPEEDIの存在を知るに至っている。
(官邸政務中枢この表現は範囲が不確かだが枝野・福山ら数名のことだろう)
15日夜に枝野の秘書官たちの協議終了後、秘書官の1人が官邸政務に報告
「心配しないでください。SPEEDIのSの字も出ていませんから」
秘書官たちはSPEEDIの“きな臭さ”に気づき始めていた。
(枝野の秘書官が報告する官邸政務とは、枝野以外にあり得ない。15日夜には鈴木ら文科省政務三役だけでなく枝野も確実に知っていた。)
原子力安全技術センターの職員
SPEEDI運用現場ではSPEEDI活用の声が
政府が住民避難に役立てようとしないことに強い不満が噴き出していた
職員は24時間体制で働いていた
官邸に直接活用を訴えるべきとの声が
上層部は慎重 文科省次第 政治家への直接の働きかけは認めない
16日からHPに「SPEEDIは運用されています(壊れていません)」というメッセージを出し続けた。せめてもの抵抗だった。
16日午前8時頃
枝野、鈴木、久住(安全委員会)、福島(保安院)ら
モニタリングの役割分担を“枝野裁定”
SPEEDIについては誰も一切発言しなかった。
しかし、同日午前11時頃、文科省政務三役ら幹部会議で鈴木は
「今後、SPEEDIは安全委員会において運用、公表すべきであると思う」
と述べ、全員が合意。
官邸から「移管」するという指示もないまま、SPEEDIの評価を安全委員会に押しつけようとした。(霞ヶ関言葉で言うところの「消極的権限争い」)
16日午後 文科省 笹木副大臣記者会見で記者からSPEEDIについて質疑応答
「原子力安全委員会が、それを使う、使わないの判断も含めて決定する」
16日午後5時56分 枝野 記者会見
「ただちに人体に影響を及ぼす数値ではない」との見解
佐藤雄平福島県知事
SPEEDIの中の、放射性物質の帯が福島市の方向に向かっているというデータに
「どういう根拠でこんなものを出すのか」
官邸政務に「不快感」を伝えた(日時不明)
16日
安全委員会は日本原子力研究開発機構(JAEA)の茅野政道を招いた。
ミスターSPEEDI
夜、逆推定を依頼される
17日から逆推定作業を開始
23日午前7時すぎ、計算結果が安全委員会に届いた。
午前、細野に「大変です。飯舘村などすごい数字になっています」
23日午後2時半過ぎ 菅首相ら 会議
23日午後5時過ぎ 枝野が記者会見
17日 早野は中川恵一准教授と共に鈴木に会った
「SPEEDIが稼働しているはずです」
「どうなんですかね。動いているんですか。私は知りません」
この際に、鈴木は、放射性物質拡散情報を国民に知らせるために、SPEEDIの状況確認と情報提供を促すには、気象学会長のメッセージと気胸学会の大御所の意見が必要と述べ、支援を取りつけるよう早野らに勧めた。
18日 気象学会理事長名の通知「信頼できる単一の情報を提供し…」
20日 「当初から稼働しているようです」とメール
21日 「原子力安全委員会において、当初から積極的に活用しているようです」
(この一連のやりとりは上記の15日夜から16日にかけての記載と矛盾。筆者は指摘していないが、これが本当なら鈴木は明らかに嘘をついている。)
24日 メール「すずかんです」
「本当に数日間にわたり原子力安全委員会にSPEEDIの公開を政府内でも様々な政治家が再三再四、提案し続けて参りましたが、私もくたびれました。最後は強引に枝野官房長官が、記者会見で、委員会の了解を得ずに押し切りました」
(このメールの内容も上記の17日~23日逆推定作業とその発表の経緯と全く一致していない。15日夜に自らSPEEDIを公表しないと決め、安全委員会に押しつけておきながら、外部には安全委員会が公表しないと主張。著者はなぜ追及しなかったのか。)
ミスターSPEEDI茅野は
「SPEEDIは使えません」
と聞くたびに、
<高潮防災の予測について、間違ってはならない、だから使えないとは誰も言わないはず>
<なぜ、今回、SPEEDIについては完全を求めるのか>
との疑問を感じた。
SPEEDIを公表することによってパニックが起こった場合、責任を取らされることを官僚機構は極度に怖れた。
行動することのリスクより行動しないことのリスクを取ることを選択した。
福山官房副長官
「文科省は組織防衛で動いた。最初は逃げ回っていたんです。だから初めは保安院に押しつけようとし、それから原子力安全委員会に押しつけて、自分らは最終的に逃げる方向で動いたと思うんですよ…最初官邸からモニタリングを文科省でやれと言われたときも、どきっとしたんじゃないですか。その後も文科省の動きは鈍かった」
この事件は、霞ヶ関の醜い消極的権限争いの歴史の中でももっともおぞましい例として記憶に留めておく必要がある。(船橋洋一氏)
SPEEDIは、…原発がもっとも危機的な状況だった3月11日から16日の間はまったく活用されなかった。
民間事故調
「SPEEDIは、事前の防災計画においては十分に活用されず、事故発生後の緊急時対応においては価値が認められなかったにもかかわらず、社会的には過度な期待が集まったため、一層、政府の事故対応に対する社会的な不信を高める結果を招いたのである」
■ 学校20mSv問題
4月6日の年間20mSv基準決定後、“敗者復活戦”を仕掛けようとした細野に対して文科省政務三役のひとりから細野の携帯に電話。
激しいやりとり。
最後に「総理補佐官というのは何の権限もないんだからな」
細野の“敗者復活戦”は、そこまでだった。
#「文科省政務三役のひとり」が誰かは記載されていない。
鈴木寛の可能性も否定できないが細野との力関係がわからない。
■ 吉田昌郎
2011年12月9日 辞任の挨拶
「ここでみんなと一緒にやってきました。こんなふうにここを去るのはとても残念です。みなさん体にきをつけて。たばこを吸う人は吸いすぎないように」
(原文通りのところと要約とが入り混じっている)
敬称略
#またはカッコ( )内はコメント
ここでは主に3つのエピソード
<15日夜:文科省政務三役会議、16日朝“枝野裁定”、同日午前:安全委員会への押しつけ>
<16日夜:ミスターSPEEDIによる逆推定作業、23日夕:記者会見>
<17日~24日:早野と鈴木のメールのやりとり>
が別々の章で述べられているが、最後のエピソードだけが明らかに矛盾している。
『カウントダウン・メルトダウン』を読む限り、鈴木寛文部科学副大臣は政府首脳の中で最も早くSPEEDI問題について知った上で非公表という意思決定に関わったことは明らか。
■ SPEEDI
3月11日午後9時12分、保安院は1回目のSPEEDI試算結果を出し、官邸地下の危機管理センターの専用端末にその予測図を送った。
12日午前1時12分、2回目。いずれも首相には伝わらなかった。
12日 早野龍五・東大教授が鈴木寛文科副大臣に呼ばれ、その後ほぼ常駐する形で鈴木を手伝っていた。
14日 海洋開発機構(JAMSTEC)の地球シミュレーターのコンピューターがシャットダウン。節電と省エネの国からの通達を受け、東大災害対策本部が判断。
山形は義憤に駆られ、鈴木にメール
「文部科学官僚の愚かな対応を辞めさせていただきたい」(ママ)
山形<この国は科学的シミュレーションを危機対応に使えない国なのか…>
猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』のエピソードを仲間に話した。
(日本は必ず敗戦するという開戦前のシミュレーション)
15日早朝、2号機損傷、4号機建屋爆発。同日夜、文部科学省モニタリングチームは浪江町の高線量地区をピンポイントで計測。SPEEDI試算によって予測してた。
15日午後2時20分、早野のツイッター「SPEEDIがフル稼働中ではないかな」
15日午後8時。文科大臣室で高木文科相、鈴木寛副大臣、笹木竜三副大臣ら政務三役5人と事務方の協議。SPEEDIとW-SPEEDI試算結果を示す。W-SPEEDIは関東、東北地方に放射性雲(プルーム)が流れると予測。(ここでも、いつの予測図なのかは書いてない)
鈴木の主張
W-SPEEDIの試算結果が出ると、たちまち風評被害が起こり、東京から福島への輸送もストップしてしまうだろう。…なかでも必要なのは、ガソリンや重油を福島県内に届けることではないか。…「いま、大事なことは、次に亡くなる命を減らすことだ」と相馬市長の言う通りだ。この点に注意を払っておかなくてはならない。
それに、W-SPEEDIは放出量が100%、全原子炉が壊れた場合を前提で計算している。
(だから試算結果は公表しない、という意味)
文科省EOC放射線班の内部メモ
政務三役は「一般にはとても公表できない内容」であると判断
#この部分は新聞記事にもなって以前ブログにも紹介した通り
このメモについて
森口文科相審議官
「備忘録的に書いたもので不正確な点がある。15日の協議では、SPEEDI公表の是非は判断しておらず、議論は継続となった」
(東京新聞編集局編『原発報道 東京新聞はこう伝えた』)
SPEEDIの存在を知った時期
枝野 15日頃 マスコミか何かから
福山 同じ頃 マスメディアを通じて
18日 小佐古らに助言を求める
小佐古 参与就任直後の17日から「SPEEDIを動かせ」と主張
寺田 小佐古がわめいているので知った(原文通り)
海江田 20日頃
松下経産副大臣 23日頃 報道で
遅くとも15日から16日の役割分担“枝野裁定”のころには官邸政務中枢はSPEEDIの存在を知るに至っている。
(官邸政務中枢この表現は範囲が不確かだが枝野・福山ら数名のことだろう)
15日夜に枝野の秘書官たちの協議終了後、秘書官の1人が官邸政務に報告
「心配しないでください。SPEEDIのSの字も出ていませんから」
秘書官たちはSPEEDIの“きな臭さ”に気づき始めていた。
(枝野の秘書官が報告する官邸政務とは、枝野以外にあり得ない。15日夜には鈴木ら文科省政務三役だけでなく枝野も確実に知っていた。)
原子力安全技術センターの職員
SPEEDI運用現場ではSPEEDI活用の声が
政府が住民避難に役立てようとしないことに強い不満が噴き出していた
職員は24時間体制で働いていた
官邸に直接活用を訴えるべきとの声が
上層部は慎重 文科省次第 政治家への直接の働きかけは認めない
16日からHPに「SPEEDIは運用されています(壊れていません)」というメッセージを出し続けた。せめてもの抵抗だった。
16日午前8時頃
枝野、鈴木、久住(安全委員会)、福島(保安院)ら
モニタリングの役割分担を“枝野裁定”
SPEEDIについては誰も一切発言しなかった。
しかし、同日午前11時頃、文科省政務三役ら幹部会議で鈴木は
「今後、SPEEDIは安全委員会において運用、公表すべきであると思う」
と述べ、全員が合意。
官邸から「移管」するという指示もないまま、SPEEDIの評価を安全委員会に押しつけようとした。(霞ヶ関言葉で言うところの「消極的権限争い」)
16日午後 文科省 笹木副大臣記者会見で記者からSPEEDIについて質疑応答
「原子力安全委員会が、それを使う、使わないの判断も含めて決定する」
16日午後5時56分 枝野 記者会見
「ただちに人体に影響を及ぼす数値ではない」との見解
佐藤雄平福島県知事
SPEEDIの中の、放射性物質の帯が福島市の方向に向かっているというデータに
「どういう根拠でこんなものを出すのか」
官邸政務に「不快感」を伝えた(日時不明)
16日
安全委員会は日本原子力研究開発機構(JAEA)の茅野政道を招いた。
ミスターSPEEDI
夜、逆推定を依頼される
17日から逆推定作業を開始
23日午前7時すぎ、計算結果が安全委員会に届いた。
午前、細野に「大変です。飯舘村などすごい数字になっています」
23日午後2時半過ぎ 菅首相ら 会議
23日午後5時過ぎ 枝野が記者会見
17日 早野は中川恵一准教授と共に鈴木に会った
「SPEEDIが稼働しているはずです」
「どうなんですかね。動いているんですか。私は知りません」
この際に、鈴木は、放射性物質拡散情報を国民に知らせるために、SPEEDIの状況確認と情報提供を促すには、気象学会長のメッセージと気胸学会の大御所の意見が必要と述べ、支援を取りつけるよう早野らに勧めた。
18日 気象学会理事長名の通知「信頼できる単一の情報を提供し…」
20日 「当初から稼働しているようです」とメール
21日 「原子力安全委員会において、当初から積極的に活用しているようです」
(この一連のやりとりは上記の15日夜から16日にかけての記載と矛盾。筆者は指摘していないが、これが本当なら鈴木は明らかに嘘をついている。)
24日 メール「すずかんです」
「本当に数日間にわたり原子力安全委員会にSPEEDIの公開を政府内でも様々な政治家が再三再四、提案し続けて参りましたが、私もくたびれました。最後は強引に枝野官房長官が、記者会見で、委員会の了解を得ずに押し切りました」
(このメールの内容も上記の17日~23日逆推定作業とその発表の経緯と全く一致していない。15日夜に自らSPEEDIを公表しないと決め、安全委員会に押しつけておきながら、外部には安全委員会が公表しないと主張。著者はなぜ追及しなかったのか。)
ミスターSPEEDI茅野は
「SPEEDIは使えません」
と聞くたびに、
<高潮防災の予測について、間違ってはならない、だから使えないとは誰も言わないはず>
<なぜ、今回、SPEEDIについては完全を求めるのか>
との疑問を感じた。
SPEEDIを公表することによってパニックが起こった場合、責任を取らされることを官僚機構は極度に怖れた。
行動することのリスクより行動しないことのリスクを取ることを選択した。
福山官房副長官
「文科省は組織防衛で動いた。最初は逃げ回っていたんです。だから初めは保安院に押しつけようとし、それから原子力安全委員会に押しつけて、自分らは最終的に逃げる方向で動いたと思うんですよ…最初官邸からモニタリングを文科省でやれと言われたときも、どきっとしたんじゃないですか。その後も文科省の動きは鈍かった」
この事件は、霞ヶ関の醜い消極的権限争いの歴史の中でももっともおぞましい例として記憶に留めておく必要がある。(船橋洋一氏)
SPEEDIは、…原発がもっとも危機的な状況だった3月11日から16日の間はまったく活用されなかった。
民間事故調
「SPEEDIは、事前の防災計画においては十分に活用されず、事故発生後の緊急時対応においては価値が認められなかったにもかかわらず、社会的には過度な期待が集まったため、一層、政府の事故対応に対する社会的な不信を高める結果を招いたのである」
■ 学校20mSv問題
4月6日の年間20mSv基準決定後、“敗者復活戦”を仕掛けようとした細野に対して文科省政務三役のひとりから細野の携帯に電話。
激しいやりとり。
最後に「総理補佐官というのは何の権限もないんだからな」
細野の“敗者復活戦”は、そこまでだった。
#「文科省政務三役のひとり」が誰かは記載されていない。
鈴木寛の可能性も否定できないが細野との力関係がわからない。
■ 吉田昌郎
2011年12月9日 辞任の挨拶
「ここでみんなと一緒にやってきました。こんなふうにここを去るのはとても残念です。みなさん体にきをつけて。たばこを吸う人は吸いすぎないように」