クリュニー美術館、ノートルダム寺院、ギメ美術館を見学した後、ラファイエットで土産物を探す。
クリュニーは、昨年に貴婦人と一角獣の6枚組タペストリーが来日していたので、日本でも知名度が上がったのではないかと思う。地下鉄St Michelの出口からセーヌ川を背に大通りを少し行くとフェンスに囲われたローマ時代の遺跡が現れる。公衆浴場の跡なのだそうだが、この遺跡の上に14世紀に建てられた修道院が現在の美術館の基になっている。美術館の敷地のなかにローマ時代の遺跡も残されているのだが、遺跡のほうは立ち入り禁止だ。クリュニーはMusee de Cluny - Musee national du Moyen Ageという名が示す通り中世美術に焦点をあてた美術館である。なによりもその建物がコテコテのゴシックだ。壁も屋根も雨樋もどこもかしこもこれでもかといわんばかりに装飾が施されている。それでも長い年月を経ていい具合に角が落ちて静かなものである。門から建物の入口至るちょっとした空間の壁に日時計が作り付けられていた。
クリュニーは、ざっくり言うと1階がロマネスクで2階がゴシックだ。古いものを眺めると思うのだが、知識は我々を幸福にするのだろうか?例えば、ロマネスクの素朴な彫像とゴシックの精緻な彫像とでは観る者との距離感がかなり違うと思うのである。もちろんどちらも一生懸命に作られたものだろうが、ロマネスクの純朴な線や形のほうが心に染み入る感じがするのである。なぜだろう?小賢しい知識などなく、素朴に神だの悪魔だのの存在を信じていた時代のほうが人間の発想が豊かであったのではないか。一筆、一鑿に込められた想いに「上手くやろう」というような余計な我欲がなく、何物かを作ろうという動機の根源が素直に仕事に表現されるから、一見したところ素朴な線やかたちが力を持つのではないか。技巧は大事だが、技や知識を自慢する心が芽生えると、そうした技や知識の枠のなかでしか行動したり考えることしかできなくなってしまうのではないか。下手に知識を得て解ったつもりになってしまうと、その先を自ら考えるという作業をしなくなってしまうのではないか。結果として世界観が貧弱になってしまうのではないか。それは果たして幸福なことなのか。世界観の広がりがなければ、些細な事でその世界が破綻して閉塞感に苛まれることになってしまうのではないか。その追い詰められたという感覚が暴力を生むのではないか。
『貴婦人と一角獣』が来日したのは、その展示室の改修工事があった所為だ。今、この作品は新装成った展示室にある。古い建物を部分的に改修すれば、当然にその部分が他とは違った雰囲気になる。建物を維持するためには改修が不可避であることはわかるのだが、もう少し上手い方法はなかったのだろうか。来日時の展覧会のカタログに過去の展示室の様子が時代を追って写真で示されている。なんだか改修の度にそもそもの在り様から離れているような気がする。
昨年の今時分にロンドンを訪れたときにセントポール寺院とウエストミンスター寺院を訪れたが、どちらもけっこうな入場料を課された。ノートルダム寺院は入口でセキュリティチェックはあるが無料だ。ここは観光地ではなく機能している教会であるということなのだろう。ぱっと見たところ圧倒的大多数は観光客のようだが、確かに礼拝に訪れていると思しき人々や懺悔に訪れている人たちも少なくない。もちろん、両方を兼ねている人も少なくないだろう。ただ、内部の一画に入場料のかかるところがある。教会所蔵のものを展示してあるところだ。数カ国語でその旨を記した掲示がありそのなかに日本語もあった。「秘宝館」と書いてある。中国語のほうは「珍宝館」だ。よく温泉場などにある「秘宝館」とどう違うのかと思い、1人5ユーロを払って中に入ってみた。キリスト教徒にとっては有り難いお宝の数々なのかもしれいないが、私には感じるものは無かった。
ノートルダム寺院の前の広場の地下に、パリ草創期のシテ島の遺跡があり、それが博物館のように整備されている。せっかくなのでこちらも見学した。地面の下で、クリュニーの遺跡とこの遺跡とがつながっているはずだ。遺跡と今との間にどのようなつながりがあるのかないのか知らないが、こうして「遺跡」として見れば過去は過去でしかない。つながっているもの、つなぐもの、というのはあるとすれば眼には見えないものだろうし、見える人にしか見えない性質のものでもあるのではないかと思う。見えない人ばかりの社会というのは世知辛くて生きづらい気がする。
ギメはフランスがカンボジアやベトナムを植民地にしていたことを思い起こさせるコレクションを中心に構成されている。親日家として有名なシラク元大統領は、ここで日本美術、殊に仏像に出会ったことがその後の日本文化への興味の入口になったという。数年前にギメも大規模な改修工事をして展示構成が変更されているそうなので、シラク氏が初めて訪れた頃とは内部が違うのだろうが、今も展示の中核はアジア各地の仏像である。 大きさということではクメール、カンボジア系が圧倒的だが、ガンダーラ、インド、東南アジア、東アジア、日本と流れがよくわかり、展示品そのものもさることながら、展示全体に感心した。企画展は鈴木春信で、小規模ながらうまくまとめられたもので、見学客も多かった。かつてのジャポニスムブームとは比べようのないのだろうが、日本の文物に対する当地の人々の関心の高さには戸惑うこともある。自分たちが見逃している大事なことがあるのではないかと不安になるのである。