熊本熊的日常

日常生活についての雑記

パリ6日目 Chantilly, Bateaux-Mouches

2014年09月05日 | Weblog

シャンティイ城へ足を伸ばす。パリ北駅から国鉄で25分、ということはパリに来る前から知っていた。問題はどうやって電車の切符を買うかということだった。ガイドブックなどには駅の自動販売機で買うことができると書かれている。確かに、国鉄の自動販売機には英語表示もある。しかし、切符の種類であるとか料金設定の仕組みを知らなければ販売機の画面表示は意味をなさないのである。出札窓口を探して駅職員から切符を買う。あっけないほど簡単だ。特急だの急行だのという特別な列車に乗るわけではないので座席の指定など必要ない。目的地と片道か往復かの別と何人分かということだけわかればよいのである。東京の鉄道も自動販売機だらけになって有人の窓口が無い駅が多い。これでは日本人であっても慣れない人は切符の購入に苦労するだろう。ましてや外国の人にとっては鉄道利用の大きな障害だ。外国からの観光客を増やすことが日本の政策目標のひとつに掲げられているが、旅行者の動線確保という基本中の基本がほんとうに考えられていると言える状況にあるだろうか?ちなみに日本政府観光局のサイトによれば2013年のフランスへの外国人観光客数は8,300万人で、2位米国に約1,300万人の差をつけてダントツである。日本は漸く1,000万人を超えて27位だ。(注:この日本政府観光局の資料がまとめられた時点でフランスの2013年の数値が未公表のため、フランスの値は2012年実績で代用されている。)

パリから25分という時間距離の割に列車の本数は少ない。切符を買ったのは9時半頃だったが列車の発車時間は10時49分だったので、ひとまず駅周辺で時間をつぶすことにした。地図を見るとモンマルトルが近そうだったので散策がてらサクレ・クール聖堂を目指して歩く。あっちに引っ掛かりこっちに引っ掛かりして歩いていたので聖堂にはたどり着けなかったがサンピエール広場には着いた。この広場の南に面した通りにはユザワヤのような手芸用品店が軒を連ねていた。どの店もそこそこの規模で本当にユザワヤの支店レベルの品揃えなのである。列車の時刻が迫っていたのでゆっくり眺めているわけにはいかなかったが、機会があれば再訪したいような場所だった。

北駅には列車の時刻の10分前くらいに戻ったが、既に我々が乗ろうとしていた列車は入線して席もずいぶん埋まっていた。パリを発車するとシャンティイは2つ目の駅だ。下車したChantilly-Gouvieuxはなんでもない小さな駅だった。帰りの列車の時間を確認してから城に向かって歩き出す。ガイドブックによれば無料バスが巡回しているらしいが、歩いても30分ほどらしいので歩くことにした。駅前から道標に従って歩いていくと最初は街路樹が美しい歩道を行くことになる。落ち葉が適度に散らばって良い風情だ。森のなかを歩いているかのような道から、やがて視界が一気に広がる。草原が続き、その中を幾何学模様のように歩道が伸びている。奥には競馬場があり、その先に城のようなものが見える。その建物に近づいてみると、それは城の厩だった。これが城ですよ、と言われれば素直に信じてしまいそうな立派なものだ。この内部も見学できるが帰りに寄ることにして、ひとまず城を目指して歩き続ける。

城に着いて、レストラン La Capitainerie へ直行。メインは軽く、デザートは重く。写真のデザートの後、名物のシャンティイ・クリームも平らげる。今年はもう生クリームはいらない。

腹ごしらえが済んだところで城の中を見学する。パリ市内の美術館とはちがって館内に人影が殆ど無いので、物理的な空間の広がりを堪能できるだけでなく、気持の上でもゆったりとできる。壁面にびっしりと絵画を並べるのは19世紀の展示方法なのだそうだ。これでは絵を描いた人は情けないような気持になるのではないかと思うのだが、当代一流と言われる作品をこれでもかと並べることに意義があったのだろう。あまり良い趣味とは言えないが、そういう自己表現が城とか宮殿というものだ。思うに、人間の中味の貧相とそれに不釣合な立場という不安定性を抱えると、その不安を解消すべく極端な行動に走るのがホメオスタシスという自然なのではないか。英知と技巧のあらん限りを尽くして物を作るのも、戦略を巡らし技術と戦術を尽くして殺し合うのも、根は同じだ。たまたま欲求と権力が同居できたので驚嘆するようなことになったのである。結局は価値観の問題なのだが、権力であるとか物を所有することに対する欲求の強い人というのは気の毒な気がしてしまう。どちらかといえば、そういうものに翻弄されているほうが気楽でよいと思ってしまう。

宮殿のような厩は博物館としても公開されているし、現役の厩としても使用されている。博物館の区画に並ぶ模型類が良い具合に時代が入っていて、眺めていて楽しい。メリーゴーランドの馬のようなものもあるが、遊園地の遊具に哀愁を感じるのは私だけだろうか?ここに黒い猫がいる。人懐っこいというのか、ここの主のようなつもりでいるのか、近づいて来て何事かを語りかけてくるかのように啼くのである。こちらが反応して何かを言うと、それに対して啼き返してくる。たまたま職員が通りかかり、彼がその猫に声をかけると、会話をするようにそれに啼き返す。ちょっとしたことなのだが、愉快だった。

16時46分発の電車でパリへ戻り、City Passportのなかにある使い残しのチケットを消化すべくアルマ橋近くの遊覧船乗り場へ急ぐ。アルマ橋といえば、この近くの自動車専用道トンネル内でダイアナさんが亡くなったのは1997年8月31日のことだ。その日はたまたま出張で訪れたジュネーブの空港で出迎えの同僚から訃報を知った。数日後に仕事でパリを訪れたとき、事故現場のほぼ真上にあたるアルマ橋の袂には献花が山のようになっていた。今も同じ場所には花が手向けられており、ダイアナさんの存在感の強さを改めて認識させられた。ちなみに当時の勤め先は今はもう無い。一応社名は残っているし、社員の多くも残ってはいるのだが、今は或るメガバンクの傘下におさまり海外事業からは実質的に撤退してしまっている。当時のパリ現法が入居していたビルにも行ってみた。ビルそのものは昔とおなじようにあるのだが入居企業は総入れ替えだ。当時は自分の勤務先も含めていくつかの企業が入居していたが、今はスポーツ用品を扱う会社が単独で入居しているようだ。出張で宿泊したホテルも相変わらずホテルとして営業はしていたが、今は米系資本の傘下に入っている。ホテルの向いのレストランもそのままの風情だが、果たして当時と同じ経営なのかどうかまではわからない。なにもかも泡沫のように消え去ってしまった。

Bateaux-Mouchesという歴史の一番古い、その遊覧船はアルマ橋近くの発着場からシテ島方面へ下り、サンルイ島を過ぎたところで折り返して、発着場を通り越してエッフェル塔の辺りで再び折り返して発着場へ戻る。約1時間の遊覧だ。ぼんやり過ごすのにはいいかもしれないが、エンジンの排気が気になるし、遠くから眺めるよりは実際に訪れてみたいところが多いので、敢えてチケットを買ってまでは乗船したいとは思わなかった。ただ、乗船している他の乗客、特に団体で乗船している某国の人々の様子を眺めているのは楽しかった。昔は日本人もこんなふうだったのかなと思う。なにもかも、やがては泡沫のように消え去るのである。