今でこそ誰もが「画家」と認めるアンリ・ルソーだが、現在の位置付けを得たのはそれほど古いことではない。ピカソによる「発見」から1世紀ほど、本家本元のフランスで認められるまでには紆余曲折があったようだ。そのあたりの事情はさておき、よく言われるのは彼の「自由な」描き方である。
遠近法を「無視」したのか、単に「知らなかった」のか知らないが、彼の風景画は人物の大きさと建物などの大きさとのバランスに独特のものがある。そのバランスによって絵画に奇妙な雰囲気というか存在感が生み出されているように見えることも、彼の画家としての今日の地位をもたらしているものなのだろう。本人は至って真面目に写実的な作品を描いていたつもりなのだそうだ。今回のパリへの旅行では彼の作品も当然に目にしたが、作品よりも実際の風景から彼の作品を想った。というのは、パリの街並みを形作る建築物の規模感が人間のサイズと合っていないように感じられるのである。パリで生活していたルソーが、あのような風景画を描くのは自然なことに思われるのである。
そもそも教育というものが個人にどれほどのものをもたらすのか、ということについては常々疑問に思っている。50数年の自分の人生を振り返ってみて、いわゆる制度としての教育について感心するような経験は皆無である。自分から学びたいと思って門を叩いたようなことについては、自覚するとしないとにかかわらず何がしかの成果があったかもしれない。また、人間というものの矮小さを学ぶにも学校という場は有効だろう。反面教師をたくさん得るということについては学校教育は最適な場である。そうした個人的な経験から類推するに、美術の場においても美大だの芸大だのといったところで得るのは詰まるところしょうもない人間関係くらいのものではないだろうか。
税関吏ルソーは1886年から毎年アンデパンダン展に自作を出品し、そのたびに見る者から嘲笑を受けたそうだ。嘲笑の理由は当時の絵画に当然にあるべき「常識」が無かったことにあるという。嘲笑された、という事実が伝えられているのは彼の作品が観る者の眼を引いたということでもある。本当に嘲笑されるだけの絵なら、嘲笑されたという記録すら残らなくて然るべきではないか。なぜ観る者の眼を引いたのか、それはこういうことらしい。
「ルーソーと云ふ人は最多数の出品をして居るが、彼の画は昔の画に擬したものである。ただ昔の画に擬すると云ふ丈では可笑なこともないが、彼のは昔の極下級な拙い画に擬して居るから変わって居るのである。…さうしてそれは大きな油画から鉛筆のスケッチに至るまで一貫して、原始的な稚気のある間違った形が画いてある。戯談かとも思はれる。…はじめは故意とやつたことがつひに習い性となって今ではこれが彼の真面目となつて居るのではあるまいか。」
これは石井柏亭が1911年7月21日の東京朝日新聞文芸欄に寄せた「アンデパンダン展のサロンとファン・ドンゲンの諸作」のなかでルソーの作品について触れた部分だそうだ。(遠藤望「ルソーの1世紀ーアンリ・ルソーと日本の近・現代美術」「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」2006-2007 図録 15頁)つまり、展示されていた作品の数が多かったというのである。
嘲笑されることをものともせずに多くの作品を出品し続けるというのもたいしたものだが、そうした状況にもかかわらず1893年には絵画の制作に注力すべく税関の職を辞めてしまう決断もたいしたものだと思う。何事かを産み出すのに本当に必要なのは体系立った知識よりも何事かを産み出そうという意志なのである。時に常識だの知識だのがそういう意志の働きを阻害することがある。常識的たろうとすることでちまちましたことしかできずに一生を終る人が圧倒的に多いのが現実だ。常識というのは権力の側から見た「常なる見識」であって、決して普遍的なものではない。権力が統治を容易にするために統治される側の人間を扱い易くする仕組みが教育というものだ。教育を受けたがために削がれてしまった能力というのは思いの外大きいのかもしれない。教育というものを否定するわけではないが、学歴だの資格だのという目に見える形で表現されるものというのはつまらないものだという思いが齢を重ねる毎に強くなっている。