映像翻訳の学校に通っていた頃の同窓会に出かけてきた。同窓会といってもオヤジ4人である。同じ翻訳学校に通っていたという以外に何の接点もないのだが、大人どうしなのでそれなりに話に花が咲いて愉しい一時を過ごすことができた。
4人のうち幹事役の人は翻訳者として生活している。その学校を修了してからすぐに学校の斡旋で仕事をするようになり、以来10年間、翻訳者として生活している。私の知り合いのなかで数少ない自営業者のひとりである。他の3人は翻訳とは縁のない生活を送っている。同窓会の呼びかけは同じクラスにいた20数名全員に対して行われているが、年に一回程度のこの集まりに参加するのは今回の4人プラスアルファといったところ。クラスの生徒は男性が5人で、こういう集まりには一切参加しないもう一人の男性も翻訳者として活動している。残り20名ほどの女性で翻訳者になったという人の話は聞かない。映像翻訳というのは特殊なルールがいろいろあるので、一般の翻訳とはかなり違った技能が要求される。総じて翻訳者や通訳には女性が多いのだが、そうしたなかにあってこうして「翻訳」を軸にオッサンどうしの人間関係が10年に亘って続いているというのは珍しいのではないだろうか。
幹事役の翻訳者以外は給与生活者である。この10年というのはリーマンショックに象徴されるような社会経済の大きな変化があった時期だが、給与生活者の3人はいずれも勤め先からの解雇を経験している。世間が不景気になったとはいえ、解雇を経験するというのは日本ではまだ少数派だろう。社会人を経験した上で学校に通って映像翻訳というようなものを勉強しようと考えるのは、社会の本流から外れているということか。外れているものどうしだからこそ、こうして集まることができるのかもしれない。
映像翻訳を学ぼうという人は殆どの場合、映画好きである。私は今はもう映画に対する関心はなくなってしまったのだが、当時は勉強の意味もあってよく観た。まだ家にテレビのある生活をしていた時代なので、ビデオを借りてくることも多かったし、もちろん映画館でも観た。飯田橋のギンレイホールは年間パスポートを買って通っていたし、ポイントカードのようなものを発行している映画館のなかには会費を払ってでもカードを取得して通ったところもあった。学校を修了して勉強として観る必要がなくなったということもあるのだろうが、映画作品への関心が徐々に失われてしまった。それに代わるように美術館やギャラリーへ足を運ぶことが増えた。自分でもよくわからないのだが、作り手の表現の過剰さに食傷したのかもしれない。絵画や彫刻などの静物は、もちろん作り手があってそこに存在しているのだが、それを見てなにを感じるか考えるかは見る側の自由である。映像作品はストーリーがあり、映像があり、音声があり、というように作り手の手数がやたらに多いのである。そこに見る側が自分の世界観と共感し合えるものを見出すことができれば楽しいと感じたり感動したりできるのだろうが、そうでないと煩いだけだ。煩いといえば、ちかごろ世の中が喧しく感じられて仕方が無い。生きる場というものは自分とそれを取り巻く環境との総体なので、自分のなかになにかが増えてくれば、それに反していると感じられる世間の雑音が喧しく感じられるようになるということかもしれない。ある種の加齢現象なのだろう。