今日はオランジェリー美術館、ギュスタフ・モロー美術館、ポンピドー・センターを訪れる。
オランジェリーはモネの睡蓮パノラマで有名だが、それよりも地下のギョーム・コレクションのほうが見応えがある。やはりピカソとアンリ・ルソーがいい。 マティスは東京のブリヂストンにあるもののほうが好きだ。2008年に初めてオランジェリーを訪れた時はもっと感激した気がするのだが、再訪してみるとそれほど感心もしない。今日の気分によるところもあるだろうし、この6年間の間に自分が変化した所為もあるのだろう。ある場所、ある物をある間隔を置いて体験することで自分の変化を実感するのも面白いことである。館内案内図のチラシを見て気付いたのだが、ここはオルセーの別館という扱いだ。
ギュスタフ・モロー美術館も2008年夏以来だ。当時に比べるとキャビネットの傷みが酷くなったような気がする。前回は建物の内部に興味を持ったが、今回はキャビネットに収納されているデッサンが面白いと思った。 なにより、手に取って眺めることができるのがよい。モローは画塾を主催していたので、おそらく塾生を指導するためなのだろうが、升目を引いた紙に絵を描き、所々に矢印をつけて何事かメモを記したものもある。私はフランス語が読めないので、そのメモが何を語っているかわからないのだが、そういう指導や制作の過程を明らかにするようなものを見ると描き手の息吹が感じられるような気がして、その作品が一層身近なものに思える。作家が実際にアトリエとして使っていた空間だからこそできることなのかもしれないが、パリには他にもこういう雰囲気の小さな美術館がいくつもある。なんということもない雰囲気を体験するというのは、何かを知る上でとても大事なことではないだろうか。私は特にモローが好きなわけではない。しかし、絵画であるとかパリの街とか文化というような漠然としたものを楽しむというのは、自分の持てる感覚を総動員する行為だと思う。そんなことは言うまでもないことかもしれないが、こういうなんでもない経験を通じて当たり前のことを改めて意識するというのも生活のささやかな楽しさだし、それがきっかけとなって新しいことを思いついたりすれば、喜びにもなる。絵という限定された範疇だけでなく手仕事に触れる楽しさとか喜びというのは、意識するとか思いつくとか発見するという自分の内面の活動が引き起こすことなのだろう。
ポンピドーセンターは20世紀以降の美術を扱うという役割を担っているが、その現代の美術というものを建物が体現しているかのようだ。美術館の空間は美術のために使われるものであり、美術に関係のないものは極力外に出す、ということで配管とかエスカレーターや通路が建物を包むようになっている。配管は機能別に色分けされ、例えば水道関係は青、空調は白、というような具合だ。別棟としてブランクーシのアトリエがある。ポンピドーセンターも2008年夏に初めて訪れたが、そのときはその外観に素朴に驚いた。ただ、ここ数日はローマ時代の遺跡から19世紀の大規模建造物に至るまで、その時代毎の特徴的なものを観て歩いているので、そうした眼には20世紀を代表あるいは象徴するかのようなこの建物は軽い感じを否めない。収蔵されている作品群も含めて、自分が生きているこの時代は瞬時の快楽を追い求めることに価値が置かれているのだということを再認識させるものだった。