昨日、地下鉄の様子のことを書いていて気になったのだが、公私の別の感覚、「私」の領域というものをどれほど意識することができるか、あるいは他人の「私」についてどれどほど想像力を働かせることができるか、ということによって生活の快適さの度合いはずいぶん変わるのではないだろうか。「私」が意識や物理的空間においてどれほどの領域を占めているのか、端的には生活空間のありように表れるのだろう。例えば整理整頓が行き届いている人というのは、それだけ他者の眼を意識しているということではないだろうか。つまり、「私」というものを座標軸のようなものでそれなりに定義して自他の別についての秩序を作り、そこそこに安定した世界観を持って暮らしているということではないか。逆に整理整頓と無縁な人というのは自己が薄弱ということになる。自己が薄弱だとその弱さを補おうとする意志が働くので何かに依存したり虚勢を張ったりして薄弱な自己を支えようとする。依存症的な習慣から抜け出すには、薬物やカウンセリングのような対処療法的なことではなしに、「私」とは何者なのか、更に言えば人間とは如何なる存在なのか、というような世界観をたとえおぼろげながらであっても持つよりほかにどうしようもないのではないか。近頃、薬物依存にまつわる犯罪が注目されているが、そんなたいそうなことでなくても誰しも身近に困った人のひとりやふたりは当たり前にいるのではないか。権限が無いのにやたらに場を仕切りたがるとか人を見下げたがるとか、年齢とか入社年次とかデジタルで表示されるものに過敏に反応するというような輩は自分の身の回りにも存在する。しかし、できないことをやれというのは土台無理な話なのである。あなたの「私」とわたしの「私」とが共存できる相手としか平和裡に付き合うことしかできないものなのである。自分の生活を成り立たせるのに必要な領域にそういう相手が多いほうが、おそらく楽しいだろう。無理に妥協して共存できない相手と付き合うくらいならひとりでいたほうがいい。以前から薄々そう思っていたのだが、年齢を重ねる毎にその思いは強まるばかりだ。