少なくとも自分たちが利用した線は、どれも3分程度の間隔で運行されていた。それでも区間によってはかなりの混雑だったのだから、パリ市内の人の往来はかなりなものである。東京のようなベンチシートではなく基本は4人ひとまとまりの対面式シートなので車内の印象はそれだけでも違うが、決定的に東京と違うのは乗客の所作である。携帯端末をいじっている人が少ない。例えば東京なら、7人掛のベンチシートで少なくとも5人は携帯を操作している。操作に夢中になって自分の下車する駅でばたばたと慌てる馬鹿も少なくない。パリは人それぞれの所作をしているが、熱中している様子はない。国民性というものもあるだろうが、大きな要素のひとつとして治安というのはあるだろう。パリは物盗が多く、地下鉄の車内や駅構内での犯罪が多いのだそうだ。特に気をつけなければならないのは車両の出入口だという。発車直前に鞄などから貴重品を抜き取られたり、鞄そのものを強奪されたりということがあるという。その所為かどうか知らないが、パリの人たちは車内に入ると奥のほうへ積極的に進んでいく。東京では入口に固まってしまって「奥へお進みください」というアナウンスが頻繁に流れている。要するに公共の場においての人々の緊張感が根本的に違うのである。それは内と外との区別、私と公の区分、個人と市民という意識の切り替え、言い方はいろいろだが、文明や文化の在り方が違うのだろう。公共の場で無防備に自分の世界に浸ってしまうことができるというのは、それだけ社会が安全であるということでもあるので喜ぶべきことかもしれない。ただ外見としてはみっともない。
犯罪が多いので緊張しながら外を歩かなければならない社会が良いとは思わないし、恥の無い社会が良いとも思わない。程度の問題なのだろうが、公私の別の感覚というのは個人レベルの諍いや犯罪から国レベルの国境紛争に至るまで全ての対立事の根底に関わっていることは確かだろう。地下鉄の車内で何憚ることなく携帯端末をぼんやりいじっているのが当たり前という感覚と、北方領土や尖閣諸島の問題とは、たぶんどこかでつながっている。