万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

核は使えない兵器なのか?

2019年07月12日 11時20分50秒 | 国際政治
核兵器には、攻撃力と抑止力の両面性があるのですが、核兵器は使えない兵器なので、今後の核管理・規制に関する選択肢は、核廃絶一択であるとする意見も聞かれます。’脅されても無視すればよい’ということでもありますが、本当に核兵器は使えない兵器なのでしょうか。

 ‘核兵器は使えない’とする主張には、仮に同兵器を使用して民間人の大量虐殺を行えば、その非人道性に憤慨した国際社会から雨や霰の批判を浴びるとする、人類に備わる倫理的抑制に対する確固とした確信と強い期待があります。‘人であるならば、かくも残酷な行為ができるはずもない’という…。多くの人々がこの考えに同感するでしょうし、そうあって欲しいと願うことでしょう。しかしながら、人類史を紐解きますと、この確信は揺らいできます。

 人類がその歴史においてジェノサイドを繰り返してきたことは、古代ギリシャの歴史家であったヘロドトスの『歴史』における記述において確認することができます。しばしば征服した部族は、一部の女性や子供を残すことはあっても、征服地の住民を皆殺しにしてきたのです。つまり、人ではなく、土地の奪取が征服の目的であった場合、その土地の住民は邪魔な存在なのです。いわば‘強盗殺人’の心理に類似するのですが、そこには、征服地住民に対する情け容赦は一切ありません。むしろ、恐ろしいことに、住民虐殺こそ復讐の連鎖を断ち、抵抗の芽を摘む最も確実で有効な方法でさえあったのです。

 ジェノサイドは古代に限ったことではなく、モンゴルは凄まじいまでの住民虐殺を経て大帝国を建設しましたし、マキャベッリも『君主論』において肯定的に論じています。現代に至り、1948年12月に国際法としてジェノサイド禁止条約が国連総会で採択されたものの、全世界を震撼させたルワンダ虐殺が起きたのは1994年のことなのです。そして今日、チベットやウイグルで起きている中国による住民弾圧は、異民族によって多くの人命が一方的に奪われ、民族性が消し去られている点においてジェノサイドと言っても過言ではありません。中国によるチベットやウイグルの支配は、自国の領域の拡大、あるいは、これらの地に埋蔵されている天然資源や戦略的拠点の獲得が主たる目的であるからなのでしょう。

 そもそも、使えない兵器であるならば、北朝鮮もイランも、軍事制裁や経済制裁の危険を冒してまで開発しようとはしなかったことでしょう。また、中ロ等が地球を破壊し得る程大量の核を保有する理由も、全人類を人質に取るのみならず、自国による全地球の独占的な支配を目論んでいるのかもしれません。

 サイコパスの存在は良く知られていますし、乳幼児を対象とした実験によれば、人類の一部には、生まれながらにして悪の側に親近感を持つ人もいるそうです。赤ちゃんに困っている人を援ける良い子のぬいぐるみと、困っている人を苛める悪い子のぬいぐるみのうち、どちらか一方を選ばせる、という実験を行ったところ、92%が良い子のぬいぐるみを選び、残りの8%は悪い子のぬいぐるみを選択したというのですから。教育によって道徳心を育むことはできるのでしょうが、悪に同調する8%の人が指導者となった場合、核のボタンを押さないとも限りません。

中国や韓国では日本人に対する憎しみを植え付ける教育を行っており、北朝鮮に至っては‘東京を火の海にする’と言って憚りません。今日の地球上において実際に住民虐殺が行われ、その行為に対する道徳・倫理的な反省もない現状を鑑みますと、‘核兵器は使えない’言い切れないのではないかと思うのです。

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コメント (16)
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