今般、香港行政府がデモ参加者に対して顔を隠すことを禁じる覆面禁止法を制定したことから、同法の根拠となった緊急法に対する関心も俄かに高まっています。そして、同法をめぐる議論を聴いておりますと、人類の倫理的進化について考えさせられるのです。
同法を活用すれば、香港行政府は、通常の立法手続きである議会での草案の審議・修正・採択等を経ることなく、緊急避難的措置として法律を制定することができます。一向に収まる気配を見せない抗議活動を前にして、あるいは北京政府による入れ知恵なのか、香港政府は、事態の早期収拾を狙って同法を利用したのでしょう。戒厳令に近い効力を有しますので、香港行政府にとりましては、いわば‘伝家の宝刀’なのです。
それでは、何故、香港には、緊急法が存在するのでしょうか。同法が制定されたのは、香港返還後ではなく、同地がイギリス領であった1922年のことです。南京条約以来、香港をアジアの拠点としてきたイギリス政府としては、同地におけるあらゆる反英活動を封じ込める必要があったからなのでしょう。同法は、1967年に中国共産党の影響下にある社会・共産主義者による反英活動を鎮圧するために使用されたのを最後に、今日までお蔵入りとされてきました。
上述した同法制定の経緯からすれば、今般の緊急法は、北京政府、即ち、共産主義勢力の意向の下で活用されており、同法が最後に使われた1967年とは逆の構図となります。このため、構図は逆となったとしても、イギリスも中国もその行為を見れば同じですので、中国による緊急法利用も許されるべきとする中国擁護論にも繋がりかねません。しかしながら、1922年、あるいは、1967年と2019年を同列に論じることはできるのでしょうか。
ここで考えるべきは、人類の倫理的進化の問題です。昔も今も人類の倫理観には何らの変化はなく、価値観にも然程の変わりはないとするならば、過去において許された行為は、今日でも許されることとなります。その一方で、人類は時間の経過につれて精神的にも進化を遂げ、その道徳心や倫理観が向上すると見なす場合には、過去において許容された、あるいは、当然視された行為であっても、今日においては許されないこととなります。‘現代の価値観から過去を裁いてはならない’とされるのは、後者の立場に立脚しています。そして、大多数の人々は、人類は倫理的にも進化する、あるいは、してきたと考えているのではないでしょうか。
両者の人類観の区別を前提にして香港問題を見ますと、前者の立場に立てば、過去のイギリスと現在の中国を同等に扱うことができます。この場合、過去と現代が繋がりますので、しばしば、未来に向けて歩んでいるつもりが過去に戻るというメビウスの輪に嵌ります。その一方で、人類は倫理的に進化するとする後者の立場に立てば、一般市民による自由な政治的意見の表明の機会を奪うために緊急法を濫用することは、先進的な価値観から逸脱した非難に価する行為となりましょう。今日の価値観からしますと、誰にでも自らが善いと考える政治体制について意見を述べる言論の自由はありますし、こうした天賦の政治的な自由は、人々の民主主義の制度が備わってこそ実現します。中国共産党と雖も、人々からこうした基本的な自由を奪う権利はないはずです。共産党一党独裁体制を維持するために人々から天賦の自由を暴力や脅し奪うとしますと、それは利己的他害行為であり、今日の価値観からすれば‘悪’なのです。
野蛮から文明への道を切り開いてきた人類の歴史を振り返りますと、行きつ戻りつを繰り返しつつも、人類には倫理的な進化の軌跡を見出すことができます。奴隷制度の廃止や司法制度の確立なども、人類の倫理的な進化過程における重要な一場面と言えましょう。倫理進化論に立脚すれば、過去を以って現在を正当化することはできず、中国は、たとえ先端的な科学技術においてトップランナーであったとしても、精神的には未発達な状態に留まっていると言わざるを得ないのです。香港問題が根本的に解決する時、それは、中国本土もまた倫理的な進化を遂げ、自由化、そして、民主化する時ではないかと思うのです。
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同法を活用すれば、香港行政府は、通常の立法手続きである議会での草案の審議・修正・採択等を経ることなく、緊急避難的措置として法律を制定することができます。一向に収まる気配を見せない抗議活動を前にして、あるいは北京政府による入れ知恵なのか、香港政府は、事態の早期収拾を狙って同法を利用したのでしょう。戒厳令に近い効力を有しますので、香港行政府にとりましては、いわば‘伝家の宝刀’なのです。
それでは、何故、香港には、緊急法が存在するのでしょうか。同法が制定されたのは、香港返還後ではなく、同地がイギリス領であった1922年のことです。南京条約以来、香港をアジアの拠点としてきたイギリス政府としては、同地におけるあらゆる反英活動を封じ込める必要があったからなのでしょう。同法は、1967年に中国共産党の影響下にある社会・共産主義者による反英活動を鎮圧するために使用されたのを最後に、今日までお蔵入りとされてきました。
上述した同法制定の経緯からすれば、今般の緊急法は、北京政府、即ち、共産主義勢力の意向の下で活用されており、同法が最後に使われた1967年とは逆の構図となります。このため、構図は逆となったとしても、イギリスも中国もその行為を見れば同じですので、中国による緊急法利用も許されるべきとする中国擁護論にも繋がりかねません。しかしながら、1922年、あるいは、1967年と2019年を同列に論じることはできるのでしょうか。
ここで考えるべきは、人類の倫理的進化の問題です。昔も今も人類の倫理観には何らの変化はなく、価値観にも然程の変わりはないとするならば、過去において許された行為は、今日でも許されることとなります。その一方で、人類は時間の経過につれて精神的にも進化を遂げ、その道徳心や倫理観が向上すると見なす場合には、過去において許容された、あるいは、当然視された行為であっても、今日においては許されないこととなります。‘現代の価値観から過去を裁いてはならない’とされるのは、後者の立場に立脚しています。そして、大多数の人々は、人類は倫理的にも進化する、あるいは、してきたと考えているのではないでしょうか。
両者の人類観の区別を前提にして香港問題を見ますと、前者の立場に立てば、過去のイギリスと現在の中国を同等に扱うことができます。この場合、過去と現代が繋がりますので、しばしば、未来に向けて歩んでいるつもりが過去に戻るというメビウスの輪に嵌ります。その一方で、人類は倫理的に進化するとする後者の立場に立てば、一般市民による自由な政治的意見の表明の機会を奪うために緊急法を濫用することは、先進的な価値観から逸脱した非難に価する行為となりましょう。今日の価値観からしますと、誰にでも自らが善いと考える政治体制について意見を述べる言論の自由はありますし、こうした天賦の政治的な自由は、人々の民主主義の制度が備わってこそ実現します。中国共産党と雖も、人々からこうした基本的な自由を奪う権利はないはずです。共産党一党独裁体制を維持するために人々から天賦の自由を暴力や脅し奪うとしますと、それは利己的他害行為であり、今日の価値観からすれば‘悪’なのです。
野蛮から文明への道を切り開いてきた人類の歴史を振り返りますと、行きつ戻りつを繰り返しつつも、人類には倫理的な進化の軌跡を見出すことができます。奴隷制度の廃止や司法制度の確立なども、人類の倫理的な進化過程における重要な一場面と言えましょう。倫理進化論に立脚すれば、過去を以って現在を正当化することはできず、中国は、たとえ先端的な科学技術においてトップランナーであったとしても、精神的には未発達な状態に留まっていると言わざるを得ないのです。香港問題が根本的に解決する時、それは、中国本土もまた倫理的な進化を遂げ、自由化、そして、民主化する時ではないかと思うのです。
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