万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

あいちトリエンナーレ問題-芸術と政治

2019年10月10日 12時53分06秒 | 日本政治
名古屋市美術館では、2010年から3年ごとに現代アートの祭典である‘あいちトリエンナーレ’が開催されています。開催年に当たる今年も「情の時代」をテーマに、映像プログラムやパフォーミングアーツ、音楽プログラムなど多彩な分野の作品が顔を揃えたのですが、その一部として企画された「表現の不自由展・その後 」が、日本国政府をも巻き込む大騒動へと発展しました。驚くべきことに、韓国人アーティストによる慰安婦像や昭和天皇の映像を燃やす映像なども展示されたのですから。

 現代アートの祭典なだけあって、トリエンナーレには‘芸術とは美の追求である’とする古典的な概念や常識的な美意識に挑むかのような作品が多く展示されており、人々の日常的な感覚を狂わす、あるいは、常識を覆すような効果を狙っているのでしょう。今年のテーマは、‘情’ですので、見る人の共感を呼ぶものであれ、逆に、神経を逆なでするものであれ、感情に対するインパクトを与えることが、作者にとりまして何よりも重要であったのかもしれません。何れにしても、現代アートの世界では‘何でもあり’であり、芸術とは何か、という定義付けさえ拒絶しているかのように見えます。

 こうした現代アート的な感覚からしますと、社会常識やタブーといった障壁などこの世には存在せず、アーティストが表現したいことを作品として仕上げることが至上命題となります。問題作品の作者である韓国人アーティストも、展示の地が日本であれ、‘自らが表現したいものを表現しただけ’なのかもしれません。しかしながら、この‘表現したいもの’が、自らの出身国の政治的な主張であった場合、‘同作者は芸術家なのか、それとも、政治的なアジテーター’なのか、という問題が発生します。

 もっとも芸術が政治的なプロパガンダの手段となる事例は今に始まったわけではなく、戦勝を記念した壁画や彫像などは、世界各地の古代遺跡から数多く出土しています。また、中世をみてもブリューゲルの作品には政治的な寓意が込められているとされていますし、現代絵画の巨匠であるピカソのゲルニカも反戦の意思表面として理解されています。プロレタリア芸術の多くも共産主義のプロパガンダの一環として作成されており、芸術とは、得てして政治性を含むケースが少なくないのです。

しかしながら、それらが、為政者の愚かさとか、平和を願う気持ちとか、労働者の過酷な境遇とか、人類社会に普遍的に見られる一面を抉り出すような場合には、人々はそれを芸術作品として受け止めることでしょう。その一方で、戦勝国による戦勝記念の作品や、特定の国によるプロパガンダ目的の作品は、芸術性が著しく低下します。今般の慰安婦像や昭和天皇の映像焼却といった韓国という具体的な国の反日政策を‘表現’しているともなれば、俄然、政治的な色合いが濃くなるのです。

 慰安婦像と言えば、韓国政府公認の下で在韓日本大使館の前に設置された少女像であり、その目的は、日本国に対する‘嫌がらせ’であることは疑う余地もありません。今般の出典作品も、新しくデザインされて製作されたものではなく、ブロンズ製であるソウルの慰安婦像のレプリカを作成し、それに彩色を施した作品です。そこには、歴史的事実はさておいて、慰安婦問題において日本国を糾弾したい、あるいは、世論を韓国寄りに導きたい韓国側の意図が透けて見えるのです。

 以上に述べてきましたように、‘表現の不自由展’に見られる濃厚な政治性、即ち、韓国の反日政策の影響を考慮しますと、公費の支出について疑問が寄せられるのも不思議ではありません(過激な脅迫はいただけませんが…)。会場は名古屋市の美術館等の施設ですので、少なくとも市の予算が注ぎ込まれていますし、取りやめになったとはいえ、例年であれば、国の支援も受けるはずでした。日本国民の多くが、慰安婦問題や同国の反日政策については強い反感と不信感を懐いていますので、民主主義に照らしますと、国民や市民のコンセンサスなき予算の投入は不当な公費の支出ともなりましょう。芸術という名がついていれば無条件に支援すべきというわけではなく、芸術が政治に利用されるケースもあることは、常に留意すべきなのではないでしょうか。芸術の秋とは申しますが、あいちトリエンナーレの一件は、芸術と政治との関係という問題までをも深く考えさせられたのでした。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。

にほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする